草野心平
〈写真はウィキぺデイア〉より
草野心平といえば「蛙の詩人」で知られている。
オノマトベ〈擬音〉という技法でカエル語を表現したり蛙を詠んだ詩が多いからだろう。
しかし、本人はそう呼ばれることに満足していたわけではなく、「僕は蛙をそんなに愛していない」と抵抗感を示すこともあった。
草野心平は他に「富士山」「天」などの対象物、語句が好きで、しばしば詩の中に詠みこんでいる。
享年85歳という活力に満ちた生涯の中から傾向の異なる2編を選んでみた。
「夜景」
コウノトリの。
鳴き声の。
あと。
音なく。
一切なく。
-
- ここは地球の。
- ドまんなか。
動かない。
天の。
戸鎌の。
月。
「窓」
波はよせ。
波はかへし。
波は古びた石垣をなめ。
陽の照らないこの入江に。
波はよせ。
波はかへし。
下駄や藁屑や。
油のすぢ。
波は古びた石垣をなめ。
波はよせ。
波はかへし。
波はここから内海につづき。
外洋につづき。
はるかの遠い外洋から。
波はよせ。
波はかへし。
波は涯しらぬ外洋にもどり。
雪や
霙や。
晴天や。
億万の年をつかれもなく。
波はよせ。
波はかへし。
波は古びた石垣をなめ。
愛や憎悪や悪徳の。
その鬱憤の暗い入江に。
波はよせ。
波はかへし。
波は古びた石垣をなめ。
みつめる潮の干満や。
みつめる世界のきのふやけふ。
ああ。
波はよせ。
波はかへし。
波は古びた石垣をなめ。
と、動きのある波を詠みながら悠久の静寂を描き出す。
心平が作り出すカエル語とその翻訳なるものを読む時よりは、詩を感じられる。
草野心平は1903年(明治36年)に生まれ1988年に没した。
福島県(現・いわき市)出身。
慶應義塾普通部を中退、中国広東の江南大学芸術科に学んだ。
1928年に『第百階級』を刊行。1935年に「歴程」に参加。
その後、日本の傀儡政権である南京の政府の宣伝部顧問となった。
南京でできた『富士山』(1943年)に体制的思想の影響を指摘する評もある。
戦後、「歴程」を復刊して多くの詩人を育てた。
参考=1929年(昭和4年)6月上毛新聞社に入社し校正部に勤務する[。7月、長男が生まれる。
9月頃から前橋に帰郷していた萩原朔太郎と交流をもつ[。翌年、上毛新聞社を退社し帰郷する[。
1931年(昭和6年)1月、小野十三郎・萩原恭次郎との共訳で『アメリカプロレタリヤ詩集』を刊行する。
2月に上京、5月に麻布十番で屋台の焼き鳥屋を開店する(翌年5月に閉店)、9月謄写版詩集『明日は天気だ』を刊行する。
1934年(昭和9年)1月、宮沢賢治が前年9月に亡くなったことを受け『宮沢賢治追悼』を編集・刊行する。
賢治には生前に会う機会はついになく、高村光太郎経由で訃報を知り花巻の実家を訪れることになった。
10月、心平が共同責任編集者となった『宮沢賢治全集』〈文圃堂書店〉の第1巻が刊行、全集は全3巻で翌年9月には完結した。
草野心平が残した多くの仕事の中でも特筆すべきものであろう。
さらに1935年(昭和10年)5月、詩誌『歴程』を創刊する。
1944年(昭和19年)3月に中断するまでに26号まで刊行された。
これらが評価されて後に文化功労者、文化勲章を授与された。
草野心平は多方面で活躍した方で、本編には書きませんでしたがたくさんの校歌を書いています。
作詞者として知っている方もいるのではないでしょうか。
傾向の違う詩編のそれぞれを好む読者に支えられて多彩な詩人として評価されています。
詩人には珍しいマルチな人だったんですね。
草野心平。。。名前は知っているのですが、小説は読んだことがないです。
印象的な詩を書かれるか方ですね。
編集にも力を注いでいたようですね。
素敵な詩篇です。