どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

見返り美猫(6) 最終回

2008-06-29 11:01:37 | 短編小説

 その道がどこへ続く道か、満男は地図で調べたことがある。
 軽井沢を起点に、八風山、物見山、熊倉峠を経て、荒船山に至る長野県側『妙義荒船林道』が、活気ある描線で記されていた。
 他に碓氷山中和美峠を経て松井田に至る群馬県ルートもあるが、いま係官が問いかけているのは、軽井沢からルート254に抜ける有料林道のことだ。
 かつて林業盛んな頃は、長野県側のAルート、群馬県側のBルートとも健在で、それぞれの役所の管理下で整備運行がなされていた。
 その後、長野県側は全面舗装され、いまも料金ゲートが設けられて機能している。
 一方、群馬県側は上信越道が開通すると、利用者の減少によって林道としての役割が徐々に衰退していったらしい。現在は倒木・崩落の跡もそのままに、廃道に近い荒れ道になっているとの情報もあった。
 係官に知っているかと聞かれたAルートは、魅力ある自然道の趣を残していると聞かされていたが、満男は地図で調べただけで、実際に走って確かめた訳ではない。
 有料と知ってとりあえず敬遠した経緯もある。だから、係官に質問を受けたとき「知らない」と答えたのは満更嘘ではなかった。
 しかし、素っ気なく知らないと答えてしまったことが胸に引っかかっていた。「調べたことがある」とか、「友人からこう聞いた」とか、なぜ言えなかったのか。
 覗きこむような視線に苛立って、知らないものは知らないんだと不貞腐れた表情をしたことが、あとからジクジクと胸を痛めていた。
「知らないか、それもそうだ。仕事で通る場所ではないもんな」
 たしかに、好奇心いっぱいに乗り出していくのは、デート中のドライバーか物好きなライダーぐらいで、仕事で利用するとすればそれこそ林業関係者か道路補修の建設労働者といったところだろう。
 有料の上に、国道254号線に出るには時間が掛かり過ぎる。
 それらを承知の上で質問をぶつけてきた係官と、行ったことがないのになまじの知識を持ってあれこれ斟酌する満男の心の動きが、微妙にすれ違い、心理的な動揺をもたらした。
 軽井沢プリンス通りから、そのまま上信越道の『碓氷軽井沢』インターに向かって直進すると、右手に下仁田に至る県道43号の案内が出てくる。通称、下仁田・軽井沢道路と呼ばれている。
 スーパー林道を利用するのではなく、この県道を駆け下って行くのが下仁田に出る早道なのだ。
 決して人の知らない抜け道ではなく、急峻ではあるが比較的直線的に下仁田へ向かう効率的な道だった。
 それなのに、なぜ遠まわしに妙義荒船林道に話を持っていったのか。満男は、係官の胸中をいぶかしみ、あれこれ詮索した。
「昨日お聞きした話では、事件があった日の午後二時ごろ、朝香さんは荒船温泉に近い集落で訪問販売をされていたんですよね」
 突然、核心に迫る質問をしてきた。
「あ、はい。そうですが・・・・」
「私、調べていて妙なことに気づいたんですよ」
「何が、ですか?」
「あなたの言うとおり磯部から下仁田に入ったのなら、取っ付きの本宿とか横間あたりから仕事を始めるのが普通ではないですか。・・・・違いますか?」
「さあ、どうでしょう」
「それが、あなたは一番奥まった初鳥屋の一軒家から訪問を始めているんですよねえ。.・・・・本当は軽井沢から大慌てで県道を走り下り、目に付いた最初の家に飛び込んでアリバイ作りをしたんじゃないですか」
 磯部温泉郷回りで下仁田に入るのとでは、最低でも一時間は違うのだから、事件発生時刻には事件現場にいなかったという不在証明の主張は、あっさり崩れるのだと係官は自信を示した。
「それは誤解です」
 満男は、わざと呆れたように言った。「・・・・ぼくは、この集落と決めたら一旦奥まで行って、そこから入口へと退いていくんです。夕方、営業が終わって引き上げることを考えれば、奥から取り掛かるのが自然じゃないですか」
「・・・・」
 係官は、満男の説明を言い逃れと思ったに違いない。「・・・・まあ、いいでしょう。これから調べれば分かることですから」
 もう捕らえたといわんばかりに、満男の横顔をジロリと見据えた。

 任意の取調べが済んで解放されたのは、午後遅くなってからだった。
 ふと、駐車場に足を向けかけて、なじんだ営業車が見当たらないことに気づいた。
(そうだ、ここじゃないんだ・・・・)
 昨夜、湯畑近くの駐車場に放置したまま、いまだクルマと離れ離れになっている。そこに行けば逢えるのが分かっていながら、いつからか近づけなくなっていた。
 パトカーに乗せられ、方向違いの警察署に連れて行かれ戸惑っていた間に、営業車は会社の人間に回収されていったらしい。警察官から直々に告げられたのだから、たぶんその通りなのだろう。
 もはや慌てて駆けつけても、満男の体の一部になっていた営業車は影も形もないのだ。
 満男は、軽井沢警察署の緑濃い前庭に呆然と立ち尽くした。
 いまさらながら、失ったものの大きさにわれを忘れていた。
 やがて思い直して、軽井沢駅から信越本線横川駅に向かう路線バスを探した。一時間に一本程度の頼りない足だが、いまの彼はそれに頼るしかなかった。
 昔は長野方面から高崎まで、乗り換えなしで行くことができた。
 しかし、長野新幹線が開通すると同時に軽井沢~横川間が廃止となり、信越本線は分断された。
 バスによる連絡手段は残されたが、乗り換えによる時間的ロスはもとより、直通できない不満足感がいつまでも尾を曳く。
 当然、観光客は新幹線に集中し、その意味ではJRの思惑どおりとなった。だが、通勤者や地域利用者の不便は言わずもがなで、ここでも利益優先の営業政策がまかり通ったというわけだ。
 満男は重い足を引きずりながら、夜になって会社に到着した。
 あらかじめ軽井沢から電話してあったので、経理担当者と専務が待っていてくれた。
 失った五万円を自分の預金で補填し、何はさて置き集金額の全額を会社に納めた。すべてのことは、そこからだった。
 事情をかいつまんで説明し、繰り返し謝罪した。明日からの出勤を確約し、これまでにも増して営業に励むことを訴えた。
「だけど大丈夫かね。警察はきみの事をしつこく調べているようだが・・・・」
「濡れ衣です。ぼくは変質者なんかじゃありません。信じてください」
 真剣な表情を目の当たりにして、専務がうなずいた。「・・・・分かった。これからも頑張ってくれ。明日も営業に出てもらえるよう、社長に言っておくよ」
「ありがとうございます」
 万感こもる言葉が、胸の奥からこみ上げてきた。
 その夜、彼の眠りは浅いものとなった。不安と恐怖が断続的に襲ってきた。
(オレは女なんて襲ってない! 猫に手を伸べただけだ)
 どこかを撫ぜた感触は指先に残っている。毛並みの美しい若猫だった。品のいい白色の毛に、淡い茶色が混じっていた。
 掌に触れたのは、猫の尻だったろうか。
 ニャーと振り返り、はにかむように逃げていった。そのとき細めた目は、あるいは睨んだ際の半眼だったのか。
 逃げるように、誘うように、尾を立てて新築の家の軒下に消えた。
(待ってくれ、どうしたいというのだ)
 追いかけて、抱き上げ、頭や背中に頬ずりをしようと試みたが、捕らえたと思ったのも束の間、するりと抜け出てニャーオと鳴いた。
 美しい猫は幻のネコ。
 幻惑だけを生き甲斐に、この世に生息する。
 その目蓋は、誘惑するように閉じられるが、黄色い網膜は永久に冷ややかだ。
 肉体は、ただの細胞。人も猫でも同じだ。
 艶然と振り返って、見返り美人。
 ニャーオと鳴いたのは、見返り美猫。ネコに取り付かれた男の妄想が夜通し垂れ込める。
「あなたは、セックス・ノイローゼです」
 逃げ出した女房へのストーカー行為を咎められた時期、意を決して訪れた精神科の医師にそう診断された。
 エロ本でも、裏ビデオでも、飽きるまで見なさい。
 別れた奥さんに執着せず、どんどん女を買いなさい。
 抑圧するから、イケナイのです。心を解き放つのです。
 しかし、性格はそう変えられなかった。好きなタイプの女の声、仕草が気になる。
 髪型、肩、背中の肩甲骨、腰のライン、季節の服装。
 少女っぽいはにかみ、熟女の深淵。ほんのり漂う雌しべの匂い。
 夢に見た薬種問屋の内儀に、実演販売で喜ばせた客の女たち、そして水商売の黒いキャミソール。
 ああ、昨夜出会った美鈴はどうしたろう。事件に巻き込まれてさぞや迷惑をこうむったことだろう。
 あの女には、もう一度会いたい。なんとしても口説いて、所帯を持ちたい。涼やかな目尻に切られて死んでもいい。

 幾重にも重なる妄念の霧に押し潰され、満男はくたくたになって朝を迎えた。
 会社に近いアパートを出て、八時には出勤する。同僚、上司の机を拭き、板張りの床にモップをかける。
「あら、おはようございます」
 昨夕五時に帰った女子事務員は、一瞬驚いた顔で満男をみつめたが、額に汗を浮かべて働く男に同情して、やさしい言葉をかけた。
「朝香さん、きのうは厄日だったわね。でも、そうそう悪いことって続かないものよね」
「ミヨちゃん、ありがとう」
 寝不足で弾力を失った皮膚を引き伸ばすように吊り上げ、笑顔を作った。
 クルマはちゃんと会社の車庫に入っていた。積んだ荷物もそのままだった。新たに二、三の小物を追加して、緊張の中エンジンを始動させた。
 ハンドルを左に切って、会社の敷地を出た。高崎の繁華街を抜けて、国道17号に向かった。
 きょうはどこへ行こうか。
 いつも悩む楽しい時間だ。クルマで乗り出してしまえば、あとの行程はすべて自分次第。
 ふと思いついて、最初に想定したコースを外れても、誰も文句を言えない。もともと満男の頭の中は、神様以外覗くことはできないのだ。
 渋川から榛名山を目指してみようか。それとも赤城方面か。
 しばらく選択余地を残して楽しみながら、結局あまり得意としない昭和村方面に入っていった。
 このあたりは赤城山の北麓に位置し、寒冷な気候を生かした高原野菜の生産で有名だ。この日も朝のうちから出荷に忙しそうだった。
 ある意味、群馬県西部の嬬恋村にも勝る一大農産地で、コンニャクの栽培でも下仁田に肩を並べる生産量を誇っていた。
 片品川と利根川の合流地点でもあり、夏は北側の沼田市から尾瀬に向かう要衝路となっている。
 しばらくすると街道沿いの土産物店で渋い青林檎を売る季節となるが、家に帰ってから「やられた」と気が付いても、景色のすばらしさに帳消しにされて渋々諦めることになる。はしっこい業者には敵わないのである。
 昨日までの曇り空と変わって、雲の合間から日差しが漏れていた。
 どこへ急ぐのか、満男の後ろにダンプカーが一台ぴったりくっついてきた。道幅さえ広くなれば、スピードを緩めて追い越させようと前方を探った。
 風は爽やかだが、疲れきった肌には少々うるさかった。
 赤城湖のほとりに到着したら、クルマの中で昼寝をしようと考えていた。一度冬季に訪れて、あまりの荒涼さに一巡りして帰った覚えがあるが、この季節ならきっと快適な眠りをもたらしてくれるに違いないと、ぼんやりした眼を開いて行く手にあるものを凝視した。
(あっ!)
 クルマの直前を何かが横切った。
 反射的にブレーキを踏んでいた。
 意思を持った黒い影。頭から突っ込む筋肉の躍動。小さいながら、衝撃力を秘めたネコの自爆テロ。
 後輪に鈍い振動が伝わり、続いて圧倒的な衝突音が満男のクルマを押し出した。追突されながら、ブレーキを踏み続ける反射神経ってなんだろう?
 押し出され、放り出されたのは、満男自身だった。
 頭の下で、さまざまな思いが踏みにじられ、悩まされた事件の履歴が瓦解した。
(こうなりゃあ、警察も手は出せまい)
 半分どこかで望んでいた結果のような気がする。
 あの強姦しそこなった若妻は、執拗に様子を窺うセールスマンの脅威が去ってほっとすることだろう。
 もとはといえば、理解のない女房のせいだ。オレがおかしくなったのは、あいつのせいだ。・・・・他人のせいにすることで、心の痛みが半減する。
 美鈴に会いたい。美鈴こそこの世の憂さを忘れさせてくれる見返り美人だ。
 行き当たりばったりに穢してきた半生は、すべて車輪の下に巻き込まれて泥になる。オレの思い、おれの過去、俺の人生・・・・。
 ダンプの運ちゃんには申し訳ないが、何の見所もない芝居の幕引きにはうってつけの協力者だ。思わせぶりな筋書きも、暗くひろがる霧にまぎれてあやふやになっていく。
「いまは最悪の世の中だ・・・・」
 呟いたのか、どうか。
 あくまでも他者に責任の一端を担わせ、その分、彼は軽くなっていった。

     (完)
  


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2 コメント

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虚しい人生? (知恵熱おやじ)
2008-06-29 16:09:19
はあー・・・こういう終わり方をするのですか。

周りの状況だけがあって、主人公本人は「自分はこうするのだという意思」がほとんどない空洞状態。
だとすればこのような終わり方しかなかったのかもしれませんが、読み終わって思わず力が抜けてしまいました。

一編の小説の主人公としては最も書きにくい人物だったに違いありません。
周りの道路状況を延々と書くとか、たまたま入った食堂のお姉さんや食べ物を何となく描写するとか、そういうやり方は確かに主人公の空洞化された状態を感じさせるのに有効な手段だったのでしょう。

その意味では作者の描写目的は達したと思われますがしかし、読む方にとってはこの主人公に身を添わせる手立てがなく、最後まで心許ないままに終わりになってしまいました。

実は主人公のその空洞性を最後にドーンとひっくり返す何らかの深い仕掛けがあって、読むものをして主人公の生き方に共感させる何かがあるのではないかと楽しみにここまで読ませていただいてきたのですが・・

でも何もなく、この主人公の行き方を進めればいつか必ず虚しい終わり方をする意外にないと思っていた、その通りの決着で・・・うーん、できればなんかもう一捻りほしかったかな。

こんなこと一読者の贅沢すぎる願いでしょうか?

ともあれ長い間愉しませていただきました。
次の小説を楽しみにお待ちしています。

知恵熱おやじ
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女狂いの一生かな? (くりたえいじ)
2008-06-30 16:18:27
長い間、読ませていただきました。
従来の作品にないような感触を愉しみながら。

しかし、予測だに出来なかった終末でした。
その終末近くになって「見返り猫」がまたも魅力ありげに登場したのは、「やはり」と感じさせたものです。
何が「やはり」かというと、主人公は相当な女狂いではなかったかとか。

作者はその晩年を、いろんな合いの手を差し挟みつつ浮かび上がらせようとしていたようですね。思い返すと、そんな気がします。

それだけに(と言ってはなんですが)小説創りが苦手な小生にとっては、やはり創作は出来ないな、と痛感させられた一編ではありました。

またのご投稿、お待ちしておりますよ。
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