ほどなく、買物を終えた令夫人が出てきた。目ざとく見つけたのは、アキナちゃんだった。ワンとひと声吠えて、伸び上がるように尾を振っている。
いままで、修三に愚痴をこぼしていたのは、どこのどいつだと一言文句を言いたいほどの変わりようである。
修三は、苦笑しながら、令夫人に頭を下げた。
「いや、珍しいところでお見かけしたので、アキナちゃんにご挨拶してたところなんですよ」
「あら、吠えたりしませんでした?」
「おとなしくしていましたよ・・・・」
修三は、告げ口どころか、粉飾してでもアキナちゃんを誉めそやす意気込みだった。
「この子、うち以外の場所だと、からきし意気地がなくなるんです。・・・・おとなしいっていうより、ここのお客さんのことは、ほとんど目に入らないみたい」
さすがに、令夫人はよく知っている。
だからこそ、アキナちゃんをポールに繋いで、離れることができたのだろう。
「おどろきました・・・・」
ある意味、令夫人の度胸のよさに驚いていた。
「でも、信用ならないわよ」
令夫人は、いたずらっぽく笑いながら、修三に視線を走らせた。アキナちゃんが、いつ豹変するか分からないと恐れている修三を、からかっている気配もある。
いつだったか、ご主人に向かって「理解不能・・・・」と漏らした一言が、ニュアンスを変えて修三に還されたことは、容易に想像できた。
「ときどきクラシック音楽をかけていらっしゃるけど、お好きなんですか」
令夫人に、水を向けてみた。
「あらら、聞こえます? ボリュームを絞ったつもりだったけど、煩くなかったですか」
「とんでもない。ぼくも昔は、名曲喫茶に通ったくちですから・・・・」
「へえ。で、どんな曲がお好きなんですか」
切り込まれて、ショパンだ、チャイコフスキーだと、知ってる限りを並べ立てた。
「教科書に出てくるような人ばっかりですよ。素人丸出しでしょう?」と、自嘲気味に付け加えた。
「いえ。みな、天才と呼ばれるほどの作曲家よ。誰が好きだからといって、素人も玄人もないでしょう」
話のついでに、モーツアルトの映画は、ご覧になったでしょうと訊かれた。
さすがに、素人でも『アマデウス』は観ている。映画館まで足を運ぶ価値のある作品だった。
「あれは、面白かったですね」
その後、テレビでもやったから、もう一度観ることになった。
実は、二度目には食傷気味に感じる部分もあったが、最初の感動をおもいだして、令夫人に話に合わせた。
「あら、とんだおしゃべりをしてしまって。・・・・お忙しいのに、足を止めさせてしまってすみません」
修三も、笑顔で会釈を返した。
令夫人との会話に熱中していたせいか、アキナちゃんの存在を無視していたような気がした。
午後、修三が二階で本を読んでいると、隣家からマリア・カラスの歌声が流れてきた。曲名は判らないが、いつもよりボリュームアップしている気がした。
(立ち話の最中に、好きな歌姫はなどと口走ったかな・・・・)
修三は、なぞを掛けられたような落ち着かない気分を味わっていた。勝手な想像に決まっているのだが、離れていても人を陶酔させる歌声を、密かに送ってきているのではないかと想ったりした。
幸い、妻は外出中だ。修三は立ち上がって、レコードプレーヤーに近寄ったが、掛けるべき曲を探しあぐねて、再び椅子に腰を下ろした。
ドボルザークの『新世界』で応じようかなどと考えた自分が、肘掛け椅子の上で晒し者になっている。
マリア・カラスの、脳髄に染みわたるような歌声が、まだ流れてくる。
令夫人は、ただ聴きたくなったから掛けただけだろう。あるいは、マリア・カラスとともに自分が歌っているつもりなのかもしれない。
どんな事件があって、ソプラノ歌手への道をあきらめたのか。修三には、それ以上知るすべもないが、いま純粋に、スポットライトの当たった自分の一時期を懐かしんでいるのだろうとおもった。
急に、犬の吠える声がして、幻想が破られた。
隣家の庭を走り回るアキナちゃんの足音が、激しい息遣いとともに交錯する。一瞬後れてバイクの音が近付く。きょうは新聞屋さんが先のようだ。
夕刊には、どんな事件が載っているのだろう。数行の記事の背後にも、たくさんの謎が隠されているのだろうなと、修三はぼんやり考えていた。
(完)
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