立ち入り禁止のロープを跨いだ瞬間、草に滑ってわずかに体が揺らいだ。
ステッキでバランスをとり、なにごとも無かったように姿勢を戻した。気付かれたかどうか、少年たちの表情を確かめたい誘惑に抗して、数馬は次の一歩を踏み出した。
築山の傾斜は、眺めていたのと違ってかなりの険しさを秘めていた。
日ごろの散歩で、それなりの自信を付けていたはずだが、彼の自負も体と一緒に揺らいでいた。
杖を先導に、前傾姿勢をとる。つま先に神経を集め、指をひらいて斜面を掴む。スニーカーの靴底越しなのに、紛れも無く大地に食い込んだ足指の存在が感じられる。
子供の頃は、裸足であれ、下駄であれ、足指の先端まで意識を通わせていた。中学から高校に進む時分には、靴に慣れ、最初に覚えた窮屈な感覚が失われていった。
小学校の教科書に、川を流れてきたキュウリが靴にはまって「きゅうくつ、きゅうくつといいました」というくだりがあって、絵とともにフラッシュバックした教室の風景が、彼の脳裏を直撃した。
あんなダジャレのような話が、なぜ教科書に載ったのか。いきさつはともかく、当時の感覚が漠然と伝わってくる気がした。
井原数馬は、もう少年たちの視線を忘れていた。一歩、一歩、滑らないで登ることに夢中だったし、人に対する目に見えない惧れのようなものが消えて、呼吸とともに胸の中が甘い空気で満たされていくのを感じていた。
数馬は、丘の鞍部にたどりついて、あらためて少年たちを見た。
何ごとかと訝しがる表情の奥に、奇態な老人に対する興味とおどろきの色が見て取れた。
「やあ、ここまで登ると、気持ちがいいんだねえ」
荒い息を整えながら、ソフト帽のつばを上に上げた。
額の汗を手の甲で拭う数馬の顔に、滲み出すような笑みが浮かんだ。
「キミたちは、高校生?」
「あ、はい・・」
数馬に近い位置の少年が、答えた。
「なにかの練習に来てるのかな」
「バスケです」
真ん中に坐っている脚の長い子が、数馬の方に顔を向けた。
「ほう、それは楽しいだろうね。ときどき試合なんかもあるんだろうし・・」
水を向けると、少しずつ打ち解ける気配があって、地区大会で優勝したときの様子などを、口々にしゃべり始めた。
数馬もまた、剣道の団体戦で勝ち上がっていった時の興奮を、目前のことのように話して聞かせた。「・・しかし、所詮は一対一の闘いだからなあ。キミたちのように、力を合わせて勝ち抜いた喜びとは、ちょっと違うかもしれんで」
「同じだと思います」
別のひとりが、いたわるように言った。
「ふうん、そうかもなあ」数馬は、思い出を反芻するようにうなずいた。「優勝した時は、監督の先生も大喜びだったろう?」
「はい、さっそく胴上げですよ」
「へえ、うらやましいなあ。剣道には、胴上げなんてないし、もうこの齢じゃそんな経験する機会はないし・・」
呟きながら、ハタと膝を打つ考えがひらめいた。
「どうだろう、キミたち、わしを胴上げしてみてくれんかね」
さすがに、少年たちの顔に戸惑いの表情が浮かんだ。
口に出してしまった数馬の胸を、かすかな不安がよぎった。この一言で、いかれジジイと思われたら、せっかくの友好関係も終焉を迎える。
「いいよ、やってやろうよ」
五人の中で、あまりしゃべらなかった肉付きのいい少年が、数馬の顔を見つめながら立ち上がった。
「ここでか?」ひとりが訊く。
「いや、頂上の方がいい」肉付きのいい少年が答える。
すぐに相談がまとまり、五人と数馬は丘の天辺に移動した。
数馬が甘食に見立てた築山だったが、頂上にはある程度の平坦部があり、そこで奇妙な胴上げが始まろうとしていた。
「おとうさん、早く帰ってきてくださいね」
病床から追いかけてきた妻の声が、耳元で甦る。
少年たちの位置が定まったのを見て、数馬は帽子とステッキを離れた場所に置いた。二手に分かれた少年たちに挟まれて、彼はゆっくりと身をゆだねた。
三人と二人、こんな変則的な胴上げはあまりないだろう。
故意でなくとも、落とされる危険は付きまとう。
だが、自分で選んだ以上、少年たちを信頼し、任せるしかない。
(そうだ、わしには孫がいたんだ)
そう思ったとき、数馬の体は宙に浮いていた。
(終わり)
タイトルから想像していたのとはまったく違う思いがけない終わり方で、「うまくやられた!」という気分。
あるいは梯子を外された、というか。
窪庭さんは一筋縄では行かない作家、ということを再認識させられました。
ともかく読ませていただき有難うございました。お疲れさまでした。
次回作をお待ちしております。
待っている人は少なくないはずです。
最初の前文に「近頃の老人は…」とあって、「これはおもしろくなるな」と直感したものですが、ともあれ穏やかに幕を閉じましたね。
一字一句の選び方の丁寧さ、語彙の豊かさに感心しながら読ませてもらいました。プロットの工夫も、なかなか味があります。
余計なことですが、最終場面にある丘には小生も行ったことがあるようです。深大寺のはずれにある体育館に並ぶような丘で、その天辺で飲み友達と日中、酌み交わしたことが思い出されました。
またのご健筆を!