どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

リュウの憂鬱(7)

2006-10-17 01:43:06 | 短編小説

 店内はまだ空いていた。あと二十分もすれば、近くの食堂で昼食を済ませた客で混んでくるはずだった。
 真木男は、壁に貼られた軽食のメニューを見つけて、向かいの席の保健所職員に勧めてみた。
「せっかくの食事時間を取ってしまって、申し訳ありません。よろしかったら、何か召し上がりませんか」
「どうしようかなあ・・・・」若い男は、迷ったように視線を泳がせた。きょう食べようと思い描いていたメニューと相当の開きがあったのか、スパゲッティーに落ち着くのに若干時間を要した。
 真木男は、ウエートレスを呼んで、同じものを二つ注文した。
「コーヒーは、先にお持ちしますか」
 黒いチョッキの似合う女性が、真木男の方に身を屈める。
 どうしようかと目で問いかけると、保険所職員は「はい」と答えた。
 コーヒーが来るのを待って、真木男は話題を本題に導いた。頭を丸刈りにした男の人で、元海軍の衛生兵という経歴を持った保健所職員がいると聞いたが、本当に在籍しているかと確かめた。
「ああ、嘱託のエノキゾノさんのことですね」
 反射的に答えた後、何でそんなことを聞くのかと、少し疑問に思う気持ちが湧いたようであった。
「実は、わたしの友人のお兄さんで、南方から命からがら帰還した見習い看護兵がいるのですが、風の便りに、同じ訓練を受けた兵隊仲間がこちらの保健所にいるらしいと聞いたので、内緒で確かめて欲しいと頼まれたんですよ」
「へえ・・・・」
 若い職員は、急に目を輝かせて身を乗り出した。「それで、探す相手の名前も判っているのですか」
「いえ、それがはっきり覚えてなくて、失礼に当たるといけないというので、遠まわしに調べているわけです」
「なるほど」
「まだ自分の名を名乗れる状態ではないので、勝手なようだが身分は伏せておいて欲しいと頼まれまして・・・・。戦地では、いろいろなことがあったでしょうから、お互いに過去は封印しておきたいのかも知れませんがね」
「そうですか。何があったんでしょうね・・・・」
 若い保健所職員の意識は、完全にエノキゾノの上に留まっているようであった。
 真木男は、栗色の柴犬を連れた永住者の老人から聞いた情報を元に、さらに話を膨らませた。
「元衛生兵だった人たちは、医者と同等の医療技術を持っていたから、戦後の混乱期にはずいぶん重宝がられたと聞きましたが・・・・」
「ああ、そういえばエノキゾノさんも、しばらく地域の医療業務に携わっていたようですよ」
「そうですか、やはりどの地方でも医師不足でしたから、法律ができるまでは頼りにされる存在だったんですねえ」
 真木男は、自分の推理があまりにもドンピシャに当たってしまって、かえって落ち着かない気分を味わった。
 エノキゾノは、医師法に定める資格を満たせなかったことから、保健所の職員として働くことになった。法律制定の翌年、昭和二十四年のことである。
「当初は人間が相手、ある時から動物が相手になったのだと、噂を聞いたことがあります」
 目の前の若い職員は、エノキゾノに対する職場内の微妙な雰囲気を、間接的に臭わせた。
 終戦直後から狂犬病が流行し、保健所の役割の一つとして、野犬の捕獲と薬殺に重きが置かれた時代があったという。
「エノキゾノさんは、犬捕りの名人だったそうですよ。狂犬が現れると、連絡を受けてすぐに飛んで行ったそうです。他の人が怖がるのを軽蔑していて、たいがいエノキゾノさんが始末をしたようです」
 保健所の内輪の話まで引き出すことに成功して、真木男の試みは予想もしない成果を挙げた。
 思えば、リュウの虐待を疑い、調べ始めてから、意外な展開に戸惑うことが多かったが、いまとなればリュウの身に起こった不幸な事実が、なんとなく因果を通して感じられる。
 人間本位の考え方で押し通してきた男にとって、近頃のペット愛玩に代表される風潮は相容れないものだろう。
 犬は物、犬は道具。
 災害救助犬、盲導犬、麻薬探知や犯人逮捕に動員される警察犬、いずれも目的を持って訓練された犬こそが理想で、番犬ならまだしも、リボンを付けたり派手な服を着せたりするべたつき方は、到底我慢がならないに違いないと考えていた。
「飼い犬とはいっても、骨折した脚を・・・・」
 しゃべりかけて、にわかに我に還った。
 ちょうど、ナポリタンが運ばれてきたところだった。
 保健所職員に確かめるまでもなく、みずからの不快感を尺度にすれば、リュウに対する扱いが不当であることは明らかだ。
 残された問題は、この場で告発するか、しないかの二つに一つである。
 結局、真木男は告発できなかった。話を聞くために作ったストーリーが、逆に真木男を縛っていた。
「ありがとうございました。エノキゾノさんという方のことを、友人のお兄さんに伝えてもらいます。そうすれば、探していた人かどうか判るでしょう」
「それがいいですね」
「友人のお兄さんが名乗りを挙げるまで、きょうのことは内緒にしておいていただけますか」
「わかりました」
 若い人らしく、素直にうなずくのが気持ちよかった。
 真木男は、もう一度礼を言って、伝票を手に取った。

   (続く)
 


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