山荘の森に隣接する農家のミツバチが、クマに襲われたとの噂が流れてきた。
趣味で始めた養蜂が嵩じて本格的になり、数年間分封を繰り返して、けっこう大掛かりに箱を並べる有力養蜂家になったところを、若い世間知らずのクマに狙われたという話だった。
クマは、家人に発見されても、なお掌を舐めていたとのことで、通報によって出動した地元猟友会の手によって、たちまち仕留められた。
この年は山の実りが薄く、木の実の不足が動物たちを里に向かわせる結果となった。二十キロほど離れた場所では、アケビ採りに森へ入った老婆が、クマの一撃を受けて、頭に十数針も縫う大怪我を負わされた。
クマからすれば、前々から目をつけていた果実を横取りされそうになって、思わずライバルを手で振り払ったのだろう。
「それは、ボクのものだよ。ずるいよ」
人間の言葉になぞらえれば、そんなことを言ったのかもしれないと、柴犬の散歩途中の老人と笑いあったばかりだった。
また、別の村では、山の斜面を切り拓いて作ったトウモロコシ畑が、イノシシの被害で全滅した。それなりの対策を取っていたのに、追い詰められた動物は、クマに限らず人間の威嚇をかいくぐって侵入してくるのだ。
すべての労力が無駄となって畑にへたり込む者、あっちが先住者だからと妙に物分りの好い言葉を発する者など、さまざまな反応を真木男は直接見聞きした。十数キロ離れた村営の共同浴場でのことである。
馴染みになった村人たちのひとりは、「このごろは、別荘地だって安心できないぞ」と真木男を脅かした。
山荘の周辺部にまでクマが現れたとなると、夕刻の散歩などは自制し、昼間でも自分の背後を警戒する意識が芽生えた。
真木男自身、国有林の中のドライブウエイを横切る敏捷な若グマを見たことがあるから、人の話でも現実感を持って聞くことができた。
深夜、屋根のトタン板に当たって乾いた音を響かせる小楢のどんぐりが、真木男の深い眠りに転がり込んでくる。
翌朝庭に出てみると、まだ薄緑色の残る誕生したての木の実が、張り詰めた空気の中でつやつやと輝いていた。
あと一ヶ月もすると、唐松の葉が音もなく降る季節がくる。尖った針が、庭にも道路にもシンシンと降り積もるのである。
その頃までには、木の実をたらふく食ったクマは冬眠の準備を整えることになる。
普通の年なら、どのクマにも安穏な眠りが待っているのだが、この年は遅くまで食料を探してうろつくクマが多かったのである。
十一月に入ったある夜、明け方近くになって、森中の犬がいっせいに吠え立てた。声の位置から、あれはどの犬、向こうのは誰ちゃんと、顔見知りの犬たちの配置は想像がついた。
だが、この時は、周辺にこれほど飼い犬がいたのかと驚くほど、激しい鳴き声が響き渡った。ひときわ大きく闇を震わせたのは、リュウの雄叫びだった。
当初、真木男はリュウを樺太犬と思っていたが、その後、リュウの白さは北海道犬の血を引くものだろうという結論に落ち着いていた。柴犬の飼い主も、近所の農家の主人もそう言うから、間違いないものとして受け入れていたのである。
調べてみると、北海道犬は天然記念物に指定されている貴重な犬種らしかった。
北海道はもとより、東北、関東にも保存会があって、北海道犬を愛する人々が純血種を守り抜いているとのことであった。
リュウが純血種であるかどうかは分からない。しかし、たとえミックスにしても、これほど珍しい犬種の流れをくむ犬を、どのようにして手に入れたのか想像もつかなかった。
おそらく保健所勤務の関係から、リュウに巡り合ったのだろうが、それならそれでリュウの扱いにもっと配慮があってもいいのにと、恨めしくさえ思った。
そのリュウが、これまでにない反応を示していた。
山荘周辺に棲むあらゆる動物の声を束ねても及ばない野太さで、背後の森に潜む未知なる生物を威嚇したのである。
祖先を遡れば、ウサギを始めキツネやシカなど蝦夷地の動物を追跡し、人とともに仕留めた優秀な狩猟犬で、時には大きなヒグマにまで挑んでいく勇猛果敢な獣猟犬として知られている。
血の記憶が蘇れば、たちまち内地の犬たちを席巻するのは当然だった。
「リュウちゃんが暴れている・・・・」
とうに目覚めている妻が、怯えたように呟いた。わずかに人家を控えた背後の森に、何かが潜み続けているようだ。
真木男は、風呂場の窓を開けに立ち上がろうとして制せられた。「・・・・また、クマが現れたのかもしれないから、戸なんかあけないでよ!」
「うん、すごい騒ぎだね」
森の王者のように吠えたてるリュウの存在を、心の底から誇らしく感じていた。
リュウの雄叫びが止んだのは、その直後だった。とつぜんの休止は、真木男の研ぎ澄まされた神経に触れて激しく反応した。
まもなくパトカーのサイレンが近付き、ひとしきりさまよった末に戻っていった。犬たちの警告も収まり、どうやら見えない敵は去ったように思われた。
日が昇った頃、リュウの失踪が判明した。
自ら檻を突き破って飛び出したのか、飼い主が扉を開け放ったのかは判らない。あるいは、坊主頭の男がリュウとともに偵察に出て、振り切られたのかも知れない。
いずれにせよ、リュウは飼い主エノキゾノの手を離れ、正体不明の敵を追って山中深く分け入ったのであろう。三本脚を駆って、体を傾がせながら突き進むリュウの姿が、目に浮かんだ。
相手はクマに相違ない。真木男は確信した。そして、日々憂鬱な時を過ごしていたリュウが、やっと歓びを見出したであろう瞬間を推量した。
もしもリュウの追跡が間に合っていたら、三本脚のリュウは一撃で倒されるだろうと思った。大グマにでも挑んでいくというリュウの血は、そこで倒されても躍動するだろう。
後には、住民から非難されるエノキゾノの憂鬱が残るはずだ。
そして、やはり理解の届かないエノキゾノという存在に対する住民の憂鬱も・・・・。
(完)
趣味で始めた養蜂が嵩じて本格的になり、数年間分封を繰り返して、けっこう大掛かりに箱を並べる有力養蜂家になったところを、若い世間知らずのクマに狙われたという話だった。
クマは、家人に発見されても、なお掌を舐めていたとのことで、通報によって出動した地元猟友会の手によって、たちまち仕留められた。
この年は山の実りが薄く、木の実の不足が動物たちを里に向かわせる結果となった。二十キロほど離れた場所では、アケビ採りに森へ入った老婆が、クマの一撃を受けて、頭に十数針も縫う大怪我を負わされた。
クマからすれば、前々から目をつけていた果実を横取りされそうになって、思わずライバルを手で振り払ったのだろう。
「それは、ボクのものだよ。ずるいよ」
人間の言葉になぞらえれば、そんなことを言ったのかもしれないと、柴犬の散歩途中の老人と笑いあったばかりだった。
また、別の村では、山の斜面を切り拓いて作ったトウモロコシ畑が、イノシシの被害で全滅した。それなりの対策を取っていたのに、追い詰められた動物は、クマに限らず人間の威嚇をかいくぐって侵入してくるのだ。
すべての労力が無駄となって畑にへたり込む者、あっちが先住者だからと妙に物分りの好い言葉を発する者など、さまざまな反応を真木男は直接見聞きした。十数キロ離れた村営の共同浴場でのことである。
馴染みになった村人たちのひとりは、「このごろは、別荘地だって安心できないぞ」と真木男を脅かした。
山荘の周辺部にまでクマが現れたとなると、夕刻の散歩などは自制し、昼間でも自分の背後を警戒する意識が芽生えた。
真木男自身、国有林の中のドライブウエイを横切る敏捷な若グマを見たことがあるから、人の話でも現実感を持って聞くことができた。
深夜、屋根のトタン板に当たって乾いた音を響かせる小楢のどんぐりが、真木男の深い眠りに転がり込んでくる。
翌朝庭に出てみると、まだ薄緑色の残る誕生したての木の実が、張り詰めた空気の中でつやつやと輝いていた。
あと一ヶ月もすると、唐松の葉が音もなく降る季節がくる。尖った針が、庭にも道路にもシンシンと降り積もるのである。
その頃までには、木の実をたらふく食ったクマは冬眠の準備を整えることになる。
普通の年なら、どのクマにも安穏な眠りが待っているのだが、この年は遅くまで食料を探してうろつくクマが多かったのである。
十一月に入ったある夜、明け方近くになって、森中の犬がいっせいに吠え立てた。声の位置から、あれはどの犬、向こうのは誰ちゃんと、顔見知りの犬たちの配置は想像がついた。
だが、この時は、周辺にこれほど飼い犬がいたのかと驚くほど、激しい鳴き声が響き渡った。ひときわ大きく闇を震わせたのは、リュウの雄叫びだった。
当初、真木男はリュウを樺太犬と思っていたが、その後、リュウの白さは北海道犬の血を引くものだろうという結論に落ち着いていた。柴犬の飼い主も、近所の農家の主人もそう言うから、間違いないものとして受け入れていたのである。
調べてみると、北海道犬は天然記念物に指定されている貴重な犬種らしかった。
北海道はもとより、東北、関東にも保存会があって、北海道犬を愛する人々が純血種を守り抜いているとのことであった。
リュウが純血種であるかどうかは分からない。しかし、たとえミックスにしても、これほど珍しい犬種の流れをくむ犬を、どのようにして手に入れたのか想像もつかなかった。
おそらく保健所勤務の関係から、リュウに巡り合ったのだろうが、それならそれでリュウの扱いにもっと配慮があってもいいのにと、恨めしくさえ思った。
そのリュウが、これまでにない反応を示していた。
山荘周辺に棲むあらゆる動物の声を束ねても及ばない野太さで、背後の森に潜む未知なる生物を威嚇したのである。
祖先を遡れば、ウサギを始めキツネやシカなど蝦夷地の動物を追跡し、人とともに仕留めた優秀な狩猟犬で、時には大きなヒグマにまで挑んでいく勇猛果敢な獣猟犬として知られている。
血の記憶が蘇れば、たちまち内地の犬たちを席巻するのは当然だった。
「リュウちゃんが暴れている・・・・」
とうに目覚めている妻が、怯えたように呟いた。わずかに人家を控えた背後の森に、何かが潜み続けているようだ。
真木男は、風呂場の窓を開けに立ち上がろうとして制せられた。「・・・・また、クマが現れたのかもしれないから、戸なんかあけないでよ!」
「うん、すごい騒ぎだね」
森の王者のように吠えたてるリュウの存在を、心の底から誇らしく感じていた。
リュウの雄叫びが止んだのは、その直後だった。とつぜんの休止は、真木男の研ぎ澄まされた神経に触れて激しく反応した。
まもなくパトカーのサイレンが近付き、ひとしきりさまよった末に戻っていった。犬たちの警告も収まり、どうやら見えない敵は去ったように思われた。
日が昇った頃、リュウの失踪が判明した。
自ら檻を突き破って飛び出したのか、飼い主が扉を開け放ったのかは判らない。あるいは、坊主頭の男がリュウとともに偵察に出て、振り切られたのかも知れない。
いずれにせよ、リュウは飼い主エノキゾノの手を離れ、正体不明の敵を追って山中深く分け入ったのであろう。三本脚を駆って、体を傾がせながら突き進むリュウの姿が、目に浮かんだ。
相手はクマに相違ない。真木男は確信した。そして、日々憂鬱な時を過ごしていたリュウが、やっと歓びを見出したであろう瞬間を推量した。
もしもリュウの追跡が間に合っていたら、三本脚のリュウは一撃で倒されるだろうと思った。大グマにでも挑んでいくというリュウの血は、そこで倒されても躍動するだろう。
後には、住民から非難されるエノキゾノの憂鬱が残るはずだ。
そして、やはり理解の届かないエノキゾノという存在に対する住民の憂鬱も・・・・。
(完)
この物語は、著者のこれまでの物語と異なり、動物=犬へのそこはかとない愛情が滲み出ていると感じましたよ。他人の飼い犬であろうが、いや、虐げられている他人の犬だからこそ、そんな強い感情が湧いたのでしょう。
それを、じれったくなるほど、のんびりとした、それでいて研ぎ澄まされた文章で表現してきたみたいです。
それにしても、リュウの行く末は読者の想像に委ねたのでしょうか。野生に還って、山で生き続けているにちがいないとか。
著者のこれまでの小説では地方や地名が明らかにされていたのも、ひとつの長所と感じていましたが、『リュウの憂鬱』の舞台は? これも想像してみましょう。
次なる珠玉編に期待!
一夜吠え騒いで姿を消したリュウ。その孤独が身に沁みます。
しかし、エノキゾノさんとリュウの関係は結局明かされないままなのですね。彼らの間に一体何があって、リュウの足は詰められることになったのでしょう。
知りたかったですね。
ともあれ8回をいつも楽しみに読ませていただきました。有難うございます。
次の作品を楽しみに待っています。
知恵熱おやじ