雄太はランドクルーザーのエンジンをかけた。
箱型の車体がブルブルと震え、運転者の昂ぶりに同調して鉄のマシーンも興奮しているように思えた。
L字型に矯正された背中と脚が、朝の冷気の中でいっそう緊張した。内部から溢れ出る活力を、筋肉の強張りで押しとどめようとしているかのようだった。
雄太はまだ若い。九月末で二十四歳になったばかりである。
地方の高校を卒業して五年余り、一度地元の信用組合に就職したが肌が合わずに退職、その後上京して就いた二つの仕事も長続きせず、従姉の亭主に引っ張られて現在の仕事に就いた。
直前の職場を辞めたのには特別の理由は無い。つきつめて言えば辛抱が足りなかったのだ。雄太の好きなクルマがらみの仕事で、清涼飲料水のルート販売がその内容だった。
信用組合が一年しかもたなかったのに比べ、これまでで一番長く続いた。
エルフを運転して営業所を出発してしまうと、誰にも干渉されることなく一日を過ごすことができた。
成績が挙がらず小言を言われることがあっても、嫌な思いは当日か翌朝かぎり、一瞬のことだから殊勝らしく反省してみせればよかった。
数量ノルマは相手あってのこと、深刻に悩まなくても最後まで追及されることはない。雄太にとってはクルマに乗ってさえいられれば満足なのだから、その程度の事は我慢できないことではなかった。
そもそもコーラのルートセールスは、頭より体力勝負だ。
決められた酒店などに立寄って瓶入りコーラの箱を何箱も下ろし、代わりに空き瓶入りの木箱を回収してくるのが仕事だった。
従姉の夫である神山の要請で転職という事態になったが、そうならなければ満更きらいな仕事ではなかった。
出勤してエルフの高い運転席に乗り込み、畳んでおいたサイドミラーを引き出すところから気に入っていた。
夜間十数台の同型車と一緒に眠っていた営業車の大型ミラーを、囁くように目覚めさせる感覚がたまらなく好きだった。
「ほら、きょうもいい天気だぜ」
バックミラーの角度を確かめ、左右のサイドミラーに写る風景を確認すると気持ちがシャキっとする。
それほど好きな種類のクルマだったが、従姉の夫である神山から四輪駆動車での仕事を餌に誘われると、給料のよさも手伝ってエルフを袖にした。
後から考えると、あまり褒められた経緯ではなかった。信念もなくまたも流された思いが残り、自分の生き方に一抹の不安を感じたことも確かだった。
しかし、ともあれ身内の会社に移った現在、いつまでもくよくよしている場合ではなかった。クルマはエルフからランドクルーザーに替わっても、バックミラーに話しかける習慣は変わっていなかった。
(おまえ、シンクロしてるじゃないか)
口には出さないが、自分の鼓動と同調するエンジン音に愛しささえ覚える。
ランドクルーザーに乗車してまず確かめるのは、いつもどおりバックミラーの角度であったが、続いてエンジン音を診断して安心する癖がついていた。
儀式を執り行うように、アクセルペダルをわずかに踏み込んで回転数の滑らかな上昇をチェックする。ブレーキペダルの踏み代を確かめた後、ギアチェンジの嵌りを繰り返し感覚する。
五感すべてで満足しないと、雄太の一日は始まらないといってもよかった。
季節は秋。すぐそこに冬が迫っている晩秋だ。
雲が洗濯板のように広がる高空が、ミラーの上半分に写っている。下半分には丈の高い枯草が視界をさえぎるように映っている。
雄太はあらためて目の前の景色を見た。
確認するまでもなく、ほとんどはセイタカアワダチソウだった。ここでは荒地の雄ススキまでが外国種の勢いに負けている。
アザミにしろ、タンポポにしろ、日本古来のものはどれも衰退するばかり。どこかひ弱なのだ。
抑圧された心を抱え、何かに反発したくて仕方のない雄太は、ランドクルーザーのエンジンが温まるのを待って、いきなりアクセルを踏み込んだ。
茎の折れる音が沸き立って、ちぎれた葉っぱが飛び散る。バンパーに当たって、セイタカアワダチソウがなぎ倒されていく。枯れかけたヒメジョオンも踏み潰されて、何の綿毛が分からない浮遊物が深緑色のボンネットに巻き上げられる。
やがて、雄太の進む方向に視界が開け、はるか前方に盛り土の赤い勾配がが見えてくる。関東ローム層と呼ばれる粘着質の土を、ブルドーザーで積み上げている最中だった。
雄太は、目的もなく工事現場を一回りした。傍若無人に走り回るランドクルーザーを咎める者もいない。
工事現場はあちこちに散らばっていて、それぞれの関係を知る者は少ないのだ。設計図に従い、松林を切る一団もいれば測量に明け暮れるチームもある。
バックホーで土を掘る者、ブルドーザーで表土を剥がす作業員、草の根まじりの残土をダンプカーで運び出す運転手など、勝手な虫のような動きが遠望できる。
その場所で何を形作ろうとしているのか、雄太はおぼろげながら理解していた。日本で初めての本格的な自動車のテストコースなのだ。
国産の自動車生産が軌道に乗り始めたいま、次の開発に向けたデータを収集する必要に迫られていたのだ。
まだ各社とも自前のテストコースを持つほどの資金力は無い。そこで四輪車や二輪車、部品メーカーなどが資金を出し合い、国の援助も得て研究開発のための団体を作った。その団体によるテストコース造りが着手されたというわけだ。
たまたま設計にたずさわる会社に雇われ、大手の施工会社の職員と接しているから分かるものの、重機の操作に一心不乱の作業員たちには雄太ほどの知識もないだろうと、若干の優越感を覚える走行でもあった。
一回りしたあと仮設の事務所に戻ってきたが、彼の担当である田代所長や現場監督の赤羽はまだ出勤して来てはいなかった。
昨夜は土浦のバー『シャレード』で看板まで飲んだあと、それぞれタクシーでホステスを送っていったから、二人とも多少遅れてくるのは仕方のないことであった。
参加企業の団体によって催された懇親会の流れで、桜川沿いのバーまで送っていったものだが、神山の指示通り待機していた雄太の時間は無駄になった。ホステスとの交渉で、田代も赤羽もそれぞれの宿舎には帰らないことになって、雄太はひとり素面で戻ってきたのだった。
「洞口さん、割に合わないわね」
シャレードの太ったママに慰められて、彼は自分の位置を確認した。感情を波立てるほどの落胆はなかったが、狸の出そうな田舎道を爆走してそれが目的だったような快感を代償に紛らわしていたのかもしれない。
細かく検証すれば、残業代が付くわけでもない奉仕仕事で、ママの言うとおり割に合わないのかもしれなかったが、雇用主である身内の神山の命令だから已む無く従っているのだった。
いきなり引き抜かれた身だから、神山の会社が今回の現場にどう関わっているのか正確なところは分からない。
田代と赤羽はもともと別の会社からの出向で、神山設計事務所雇い人の雄太も寄り合い所帯の一員として仮事務所の一隅に机を貰っていた。
それでも、昨夜の懇親会に出席したことでいくらか様子が分かってきた。
統括責任者は、国の元役人で柳田という老人だった。この柔和な感じの老人を囲んで、大手の土木建築会社や下請けの地元業者、測量会社、各種の施工業者など多数の現地社員が入れ替わり立ち代り挨拶に現れる。
頭の禿げ上がった老人は、出張ってきた社員たちと盃を交わしながら、滞ることなく親睦を深めていた。
この夜は東京から駆けつけた神山も参加していて、あれこれ他社の職員に気を遣っていた。設計会社といってもすでに基本の設計は終わっていて、現場作業に入ってからの潤滑油の役割を担っているらしかった。
「雄太、おまえは飲むなよ」
すでにかなりの量のアルコールを体に入れた神山の声が険しくなっている。眼鏡の奥から覗く細い目は、雄太の反応を窺うように冷たい光を放っていた。
「はい」
とりあえず従順な返事をした。神山の激しやすい性格については従姉から聞いていたし、新米の自分が遠慮すべき場であることは心得ているつもりであった。
「宴会が終わったら、俺のクルマで田代と赤羽を土浦まで連れて行ってくれ」
「二人だけですか」
「俺は他にも用がある、いいな?」
中途半端な理解であったが、行き先などはその時になれば分かるだろうと思いつつ頷いた。
燗酒を果てしなく飲み続ける柳田の背後から、神山が合図をしてきた。
すでに手はずが整っていたらしく、田代と赤羽が立ち上がるのが見えた。
雄太は口に入れていた巻寿司を呑み込みながら、作業着のポケットを探った。先ほど神山から預ったキイが、指先に触れて晩秋の冷たさを伝えてよこした。
宴会場になった大手建設会社の事務所横に、神山のバンが置いてあった。後部座席に二人を乗せ終わると、後を追ってきた神山が紙にメモしたバーの名前と略図を渡してよこした。
「おまえ素人だから、分からなかったら赤羽さんに教えてもらえ」
雄太に命令し、続いて田代のほうへ愛想笑いとも思える苦笑を浮かべて見せた。「・・・・いやあ、柳田の爺さん、ウワバミだね。あの調子じゃ、明日の朝までだって飲み続けるぜ」
二人が抜け出すのも無理はないと、それとなく正当化して送り出そうとしているのだ。
「じゃ、雄太、粗相のないようにな」
神山の言葉に背を押されて『シャレード』に送り届けたのだった。
その後の首尾は分からない。普通に考えれば、田代も赤羽もホステス同伴で市内の旅館にしけこんだはずだ。
それぞれの好みにしたがって、田代はぽっちゃり型、赤羽はスレンダーな女を連れ出した。
カウンターの端で、ツマミの面倒を引き受けていた給仕手伝いの女とぼそぼそ言葉を交わしながら、雄太は何かと付き合う機会の多くなる二人の動向を見ていた。
洋酒に変えてますます顔を赤くする赤羽に比べ、所長の田代は無口なままで宴会場にいたときよりも青白く見えた。
自身もスマートな赤羽は、洋風に髪を巻き上げた三十代のホステスと陽気にはしゃいでいたが、あまり顔色を変えない田代に対しては、丸顔の先輩格と思われるホステスが懸命にご機嫌を伺っていた。
いろいろの表情を見せた田代と赤羽だったが、朝まで戻って来ていないところをみると、二人とも満足な夜を過ごしたのだろう。
女の経験が薄い雄太には、躊躇なく関係を持てる大人の世界に驚きを感じる一方、こんなものかと白けて受け止める冷淡な気持ちもあった。
まだ完成形の見えないテストコース同様に、出向社員のタガも緩んだままなのだろうか。
雄太は再びセイタカアワダチソウの真っ只中にランドクルーザーを乗り入れて、何ヘクタールもの林と草原の未開地を眺めわたした。
新しい物語が始まるときはいつもわくわくさせられます。
一回目はとりあえず状況説明といったところのようで、これからどう展開していくのか見当もつきませんが、2回目以降の動きに期待しております。
わが精神を刺激していただけるような何かが起こりますように。
知恵熱おやじ
暗く重く、だからこそ格式高そうで、怖々ながら惹きつけられます。
これってブログ氏ご自身の意思と趣味で変えたのでしょうか?
お話もクルマの世界が中心になるようで、まずは作者のクルマに関する深い造詣と観察眼が楽しめます。
早くも風雲急を告げそうで、これからが待ち遠しくなります。