それぞれの退場
休暇が終われば出勤してくる人間に、課長はなぜ電話をかけてきたのだろう。吉村は、熊本から帰ってきたばかりの疲れた頭で考えていた。
(契約のことで、また不備でも探し出したのか)
それとも、辞めさせることができなかったので他局へ放り出す算段でもしているのか。
蒲団にくるまっても真意が分からないために苛立ちを感じていた。
となりの部屋では、久美と乳児が休んでいる。何時間置きかに授乳させる久美とは、寝床を別にすることで互いの睡眠を確保する方法をとった。
眠れないまま転々としていると、苛立ちの原因がもう一つあることに気付いた。どんな用件があったにせよ、家庭にまで電話をしてきたことへの不満だった。
久美から報告を受けたとき、ほんとうは家の中まで押し入られたような嫌悪を覚えたことを、いまになってはっきりと思い出していた。
悶々としたまま朝を迎え、鬱屈した気持ちを抱いて出勤した。
「留守中に何度もお電話いただいたようですが、なんだったのでしょうか」
吉村は挨拶も抜きに課長に迫った。返事次第では食ってかかりそうな勢いだった。
「いや、緊急に確かめたいことがあってね」
課長が薄ら笑いを浮かべたように見えた。「・・・・実は西新宿を管轄する警察署から、調査に協力して欲しいと電話があったのだよ。それがどうもキミに関係がありそうなので、急いで連絡したわけさ」
「・・・・」
言葉が出なかった。不安が胸のあたりでつかえていた。「・・・・どんなことでしょうか」
声がかすれていた。
「警察も詳しいことは話さなかったんでねえ。連絡が取れなかったことを係りに伝えて、その際、出勤したら当人から電話させるということで処理しておいたが、それでよかったろうね?」
うなずいたものの、依然不安と疑問は解消できなかった。
この世に誕生がある一方、人知れず退場していく命がある。
警察からの連絡が、公園の片隅で死んだ一人の路上生活者の身元確認にあったことが、折り返しの電話によって判明した。
「吉村洋三さんですか。実は三日前に亡くなられた男性が、あなたと思われる氏名と職業を記した紙切れを持っていたものですから、それを手がかりにそちらの郵便局にたどり着いたというわけです」
(誰だろう・・・・)
頭の芯がズキンと痛んだ。
新宿方面の郵便局に勤めたことはないし、この地域に関連して吉村の名刺や名前入りのチラシを配った記憶はまったくなかった。
「その人、何歳ぐらいの方ですか」
吉村は最初に浮かんだ疑問をぶつけてみた。
「そうですね、おそらく六十歳か六十五歳ぐらいではないかと推定されますが」
係りの警察官が答えた。
「ほかに何か手がかりになりそうなものはないんですか」
「ええ、仲間うちでは通称ヒデさんと呼ばれていたようですが、本名も本籍も誰も知らないとのことですし・・・・」
吉村は、これまでにかかわった年配者を急ぎ思い浮かべてみたが、偶然の成り行きにせよ彼の名前や職業を紙片にメモするような人物を探り当てることができなかった。
「ぼくにも心当たりがありませんね」
「まあ、調査しても判らない場合がほとんどなんですよ。残念ながら、このまま行旅死亡人として区役所の方に遺体を移管するしかありません」
警察官は、吉村に寄せたわずかな期待を断たれて落胆の声を出した。
「行旅死亡人ですか」
吉村が呟いた。
縁もゆかりもない人かもしれないが、彼のダメ押しによって身元不明者と決定されそうな雰囲気に、なんともいえない運命の理不尽さを感じた。
「いや、失礼ながら今回のようなケースでは、身内の方に無意識のSOSを発信している例が多いものですから」
「・・・・」
吉村は自分の掘った落とし穴に足から落ちたような衝撃を覚えた。体への打撃は何ひとつ受けていないのに、狼狽によって心は垂直の闇を底なしに落ちていた。
「どうかしましたか?」
異変を探知する110番担当官のように、冷静で執拗な問いかけの声が受話器を伝って届いた。
「まさかとは思いますが、音信不通の父親がいます・・・・」
「そうですか。年齢などは該当しそうですか」
「はい、考えてもみませんでしたので・・・・」
最初に心当たりがないと言ったことを気にかけていた。
「ご事情はわかりませんが、一応署までご足労ねがってお顔を検めていただければありがたいのですが」
間髪を入れず係官が吉村をうながした。
「分かりました」
返事をしてから、万が一遺体が父親だった場合の立場の複雑さに思いが及んだ。
まず第一に、父には内縁とはいえ新たな妻が居たはずだ。その後、洋三の母との離婚が成立したのを機に結婚の届けを出しているかもしれない。
そうなれば、すべての手続きは新たな妻のほうが優先されるはずだ。たとえ実子でも、人様の家庭に勝手に関わっていくことは許されないだろう。
ただ、父が路上生活者になっていたとすれば、新たな家庭は崩壊していたに違いない。三度家族を持って一度として全うできなかった父は、体の中にさすらいの血を持たされて生まれてきたのであろうか。
おふくろは父の二度目の妻、洋三の母として苦悩した末に、父とはきっぱりと決別した。その母親にこの事態をどう伝えるか。仮定の話とはいえ、急にはうまい切り出しが思い浮かばなかった。
一昨日たくさんの祝福を受けて結婚したばかりの長兄にも、父の死をどのように明かしたらいいのか分からなかった。
間違いであってくれたらいいのだが、ときどき吉村の意識に現れるほろ苦い記憶の数々が、係官のいう無意識のSOS説を動かしがたい真実のように裏付けていくのだった。
もう一つ彼を躊躇させる要因が横たわっていた。
産後の回復も万全でない久美に、いまこの時点で、父が路上生活者であり挙句に公園で死んでいたなどと告白することができるだろうか。
いくつも重なる困難な状況が、確認に向かおうとする吉村をためらわせた。
しかし、現れようとしている真実がどうであれ、そこから目を逸らすことはできなかった。気の重い作業だが、それをやり遂げない限りはこの先うまく生きていけない気がした。
「伺います」
吉村はもう一度うなずいた。今度は自分に対する返事のようなものだった。
西新宿の青梅街道沿いにあるという所轄署の位置を頭に入れ、午後なるべく早めに行くということにして電話機を置いた。
本来なら二時間ほどの時間休を申請して駆けつければいいのだが、三日間の有給休暇を過ごしてきた直後だけに、課長に申し出る勇気は湧かなかった。
それに慌てて警察署に駆けつける様子を悟られたくないという気持ちもある。まだ何ひとつ確定した情報がある訳でもないから、課長の詮索があったとしても答える必要はないのだと、平然とした顔で集金に赴いた。
外回りの途中で再度連絡しておいたので、警察の係官は吉村が到着するまで待っていてくれた。
受付けが済むと直ちに死体が安置されている場所に案内された。
署内の人目につかない階段を地下まで降り空気を遮断する扉をくぐると、幅広の台の上にめざす遺体が白布で覆われていた。
「どうぞ、お検めください」
吉村を顔の見える位置に立たせて、白布をゆっくりとめくった。
シーンと張り詰めた空気の中で、顎が姿をあらわした。たわしのような鬚をはやしたゴムの塊に見えた。
鼻の穴が三角の闇を穿って二つ並んでいた。
血の気のない頬が内側へ沈んでいる。安置されていた時間が張りを奪っていったのか、それとも路上生活のなかでふくらみを失っていったのか、くすんだ肌が通り過ぎていった歳月を忍ばせた。
目の下の袋を見たとき、吉村はピクリと身じろぎした。
一歩踏み出して覗き込むようにした。
弓形に閉じられた瞼に覚えがあった。生きていてパッチリと開いたら、直線的な眉とともに印象深い目元として記憶されたことだろう。
「父です・・・・」
額も生え際も八代のものだった。
同じ九州でも、隣り合わせの土地とは微妙に違う。
熊本県内で鹿児島や長崎特有の風貌を見かけることもあるが、おそらく越境してきた遺伝子のなせる業だろうと勝手に解釈していた。
八代を捨てても、八代は父を捨てなかった。土のにおい、海のにおいを骨相に刻印して、肉体の滅びに抗していた。
吉村は眼前に父親を見下ろしながら、沸き立つ気配のない感情をいぶかしんでいた。かつて彼は、三度死者と対面している。そのつど抱いた感慨をうっすらと思い出すことができる。
祖母の死が初めてで、小学生だった彼は喪ったものの大きさを家族中の誰よりも深く受け止めていた。
「ばあちゃん、死んじゃいやだ・・・・」
保険外交員として暗くなってからしか帰ってこなかった母よりも、祖母は命に直結する存在として身近に在ったのである。
鉄道唱歌を教わったのも、格言や言い伝えを聞かされたのも祖母だった。
ミミズに小便をひっかけて腫れたちんぽこに軟膏を塗ってくれたのも、隣家の婆さんの立小便を囃したてて叱られたのも、みんなばあちゃんだった。
「洋三、ばあちゃんは死んだわけじゃなかとよ。天国へ行って、おまえや家族中のもんを守ってくれとるんや」
母のことばを聴いて見上げた鴨居に、祖母の気配を感じたことは誰にも言わなかったが、いまはっきりと思い出すことができた。
慎ましく綿花に埋もれて逝った久美の祖母も、吉村には忘れられない存在だった。キリキリシャンと立ち働き、キリキリシャンと生き抜いた。久美の呼びかけを借りれば「おばあちゃま」の生涯を終生彩った涼やかな声が、霊安室に木魂していたような気がする。
久美の相手として吉村を支持し、こごみや行者ニンニクの味を教えてくれたおばあちゃまとの別れは、身内へのおもいに劣らぬ深い悲しみを呼び起こしたものだった。
そうした決別とは違った意味で、早川の死は衝撃的だった。
奥穂高岳から西穂高へ渡る痩せ尾根を、上高地バスターミナルの売店で調達した花束を手向けるために踏み進んだが、胸の中をヒュンヒュンと吹き抜ける風に重心を危うくされて思わず膝を折ったものだ。
(まだ付き合えないよ)
谷底の早川に向かって、冗談めかした呟きを漏らしたのを誰も知らない。滑落現場を示す赤いペンキの印が、合図をするかのようにガスに見え隠れしていた。
実際に早川と対面したのは、団地の自治会室で行なわれた葬儀の日だった。損傷を気付かせない真っ白の顔が、生前と同じように無垢の印象を与えていた。
「こころの綺麗な人ほど、神様に早く召されるんだよ」
何の折に聞いたのだったか、そんな言葉を思い出していた。
煤けたような父の顔を見下ろしたまま、吉村のかかわった幾つもの死が脳裏を過ぎていった。
天寿を全うした者、若くして命を絶たれた者、それぞれの退場は吉村に深い悲しみをもたらした。
だが、目の前に横たわる父の遺体は、数分の時間を経てもなお曖昧な感情しか運んでこなかった。ワアッと取り縋る激情からも、冷たく突き放す感情からも遠い模糊としたおもいが流れていった。
「いずれにしろ、ご遺体のままお預かりするのは限界ですので、明日にでも区役所に移管します。おそらく火葬を勧められると思いますが、後のことは福祉課でご相談ください」
「わかりました。一存では決められませんので、家族に連絡してみます」
吉村は係官に一礼して地下の遺体安置室を辞そうとした。
突然、悲嘆が喉を突き上げた。呆然としたまま感情の動きを停止していたのが、にわかに堰を切ったような激情が奔っていた。
「父さん、なんで生きているうちに・・・・」
台の上で盛り上がった塊に縋りついた。
どこで知ったのか洋三の職業までメモしながら、一言の連絡も寄越さなかった父の心情が切なかった。
どこかの時点で妻子を捨てた自分の行為を恥じたのか、早々に女に捨てられて因果応報の怖さを思い知ったのか、九州男児のプライドが肉親との接触を許さなかったのか、躊躇を繰り返しながら路上生活に入っていった心の軌跡が見えるような気がした。
父の気持ちが達者であれば、仕事などいくらでもできたはずだ。洋三がそうであるように、父は身長も高く脚も長かった。
女がもてはやし、父もそれに甘えた。その結果がこのざまだ。
(実の子に、死んでSOSを発するくらいなら、頭を下げてでも姿をあらわせばいいのに・・・・)
恨み言を腹の中に並べ立てて、嗚咽した。
「もう一度、お別れしますか」
返事を待たずに係官が顔の白布をめくった。
今度は父の顔が人格を持って現れた。ゴムの塊に針を突き立てたように見えた顎も、手入れの悪い鬚面として理解できたし、鼻も瞼も眉も過ぎ去った歳月の影を帯びて男の来し方を想像させた。
だが、二十年の空白は大きかったし、いくら考えてみても父の営みを身近に引き寄せることはできなかった。一方で、不思議な静謐が胸を満たしていた。憐れみとも異なる許しの感情のようにおもわれた。
どんなに不幸せな人生に見えても、生きた魂の軌跡をたどることができれば納得がいくものだ。この世の幸福も不幸も終わってみれば大した違いがある訳ではないのだと、祖母は口癖のように言っていた。
小学生のうちから刷り込まれたせいか、吉村も違和感なくそう信じている。
常々恨むべき父に対して慕う気持ちを甦らせていたものだが、束の間、予想を超えた事態に狼狽した時間を経て、やっとかつての心境を取り戻したのかもしれなかった。
もう迷いはなかった。
この世のしがらみや約束事に縛られることはなかった。
八代の母に連絡し、二階に新居を置いた兄夫婦にも伝えてくれるよう頼んだ。最初、母は愕きのあまり遺骨の引取りを激しく拒んだが、吉村自身よりも短時間で事態を受け容れた。
このままでは、行旅死亡人として無縁仏の仲間に入るしかないと伝えたことが、どうやら決め手になったようだ。
「お志麻に裏切られたんじゃろうよ。目ェ覚ませばよか思うて散々言い聞かせたのに、のぼせた頭の血ば下がらんかった・・・・」
愚痴はいくらでも聞いてやろうとおもった。
いったんは子供らを置いて飛び出した母の恨みは、ちょっとやそっとで解消できるものではない。
夕暮れの野良道を白いスクーターで遠ざかっていった母。その母を二階の窓から見続けた悲しみは、吉村にとっても忘れることはできないのだ。
だから気の済むまで恨み言を聞く。
母の気が晴れるころには、吉村の哀しみも軽くなっているはずだ。それが人間に与えられた忘れることの効用に違いない。
家に戻って、久美にも父の死を告げた。往き倒れと呼ばれる哀しい状況は話さなかった。
「まあ、家を出て行った人だし、本来連絡も来ないのが当たり前だけど、ありがたいことに知らせてくれる人がいたということらしいっスよ」
ちょうどむずかり始めた赤子に気をとられたのだろう、久美の質問を免れたのは幸いだった。
二日かけて父の処理は終わった。
空路やってきた母と兄が、出来たての遺骨を運んでいった。
吉村家の墓にいきなり埋葬するのはそぐわないというので、代々供養を司っている寺の住職がしばらく父を預かることになった。
母でも死んで、兄が名実ともに家督を継ぐことになれば、父は吉村家の墓に受け容れられるかもしれない。父から譲られた家や土地や墓所だから、兄もあっさり認めそうな気もした。
母の居場所がどうなるか。魂になってから再び父を責めることはないだろうか。いくら考えても分からないことが多すぎた。
行旅死亡人になっていれば、火葬代も含めすべての経費はタダだったのに、吉村が名乗り出たことで多額の負担を請求された。
それはいい。家計には響くが、父の名誉を回復させる費用だから。
ただし、遺骨になった父が、身内に負担を強いたことで却って肩身を狭くするのではないかと余計な心配も湧いた。
課長には、父の死を報告して忌引きを請求した。
厳密にいえば問題があるのかもしれないが、そんなことを詮索している暇はなかった。
万が一扱いが違っているのであれば、後から直せばいいことだ。この課長相手には真実など何ひとつ話すものかと、警察からの電話の一件も作り話で誤魔化した。
人間の営みは実に煩雑なものだと、吉村はこのごろつくづくおもうようになっていた。いくら自分の考えどおりに進もうとしても、思いがけない方向から障害物が現れて、ごっつんごっつんぶつかり合ってしまうのだ。
いくらかは人生の包丁捌きも上達したはずなのだが、まだまだ上手に処理できないことが多すぎる。
早い話が<ふくべ>での修業に、口さがない同僚から噂が流された。
曰く「公務員は副業を禁止されているはずじゃないか」
確かに本人名義で会社を興したりすれば国家公務員規則に抵触するが、身内の店で仕事を手伝うぐらい何の問題もないはずだ。
もしも課長がそのことを突っついてきたら、アルバイトにすら該当しない無償の労働をなぜ咎め立てするのかと逆襲に打って出ようと待っていたが、今回は課長もさすがに勇み足は起こさなかった。
「仕事に全力を注がないのはまずいんじゃないかい」
コソコソと足をひっぱる総務主任のやり口と分かっていたが、一刀両断と行かないところがもどかしかった。
「酒ばかり飲んでいて、何が仕事に全力を尽くせ、だ?」
揶揄したい気持ちはやまやまだが、面と向かって言われたことではないから却って厄介だった。
すっきりといかないことが続く毎日だが、忍耐をしているうちにいつの間にか治まるところへ治まるのが不思議だった。
秋になって、局長がこの局を花道に退職していった。
つぎには『ふるさと小包』を扱う外郭団体の重要ポストが用意されているらしく、天下り批判もものかわ小型の渡り鳥は意に介すことなく悠々と飛び立っていった。
続けて総務課長と保険課長が異動したのには吉村も驚いた。
それぞれ現在の局より規模の小さい普通局への転勤で、時期的には定期異動とも考えられたが、事情を知る吉村には左遷含みの人事におもえて仕方がなかった。
郵便局内部に居ると、マスコミや一般の国民が騒ぐほど天下りや外郭団体の存在に対して神経質ではなかった。
小さな渡り鳥の羽ばたきなど当たり前のようにおもっていて、事実吉村など今回の人事で見せた局長の手腕に感服し、心の中で拍手を送りたい心境だった。
ところが、たまたま目にした週刊誌の広告で、郵政民営化の真実を暴くとした書籍の存在を知って取り寄せ注文をしたことから関心の度合いが深まった。
そこに描かれていたのは、これまで吉村が肌で感じ、推理していたシナリオよりも相当過激なストーリーだった。
十年先を予測する記事の中に、民営化決定後の郵便貯金のゆくえが書かれていた。アメリカの狙いもさることながら、現在国によって保証されている郵貯や簡保資金が、民間会社に移行することでどのように変わっていくのか、仮定の話としてもおそろしい内容を含んでいた。
同時に官僚がいかに巧みに生き延びていくか、株式会社となるであろう夥しい外郭団体の未来図として取り上げられていた。
(そうか、局長の手腕も手放しで喜んでばかりはいられないな)
身近なことに偏りがちな自分の視野を、もっと拡げなければいけない時代になったことを改めて痛感した。
課長たちの転勤も、吉村の目には退場していく組織の残滓に見えた。
郵政三事業も磐石にみえる岩塊に亀裂が走り、やがて脆くなった岩の礫となって崩れ落ちる日が来るのかもしれなかった。
それぞれの退場は、案外気が付かれないうちに進行していて、多くの目に明らかになったときには、手のつけられない大崩落を伴って人びとを呑みこむのかもしれない。
吉村の感覚はある意味鈍磨しているから、「まさかそんなことは・・・・」と否定する意識が勝っている。
だが歴史の中に、予知や予言の存在があったことも事実だ。自分の手でできることは今のうちに手を打っておこうと、これまでの行動を再確認する吉村だった。
吉村はもう人目を気にせず、調理師免許の取得に向けて<ふくべ>の調理場に立ち続けた。要件さえ満たせば、試験を通る自信があった。
ぴちゃぴちゃと口を鳴らすだけだった乳児も、いまや「うまうま」と吉村に笑いかけるほどに成長している。
久美と手を携えて白馬の雪渓に立ったときのように、わが子の誕生に力を貸してくれた崇高なる頂に感謝した。
そして、三つ児の魂がおおらかに定着するまで、どんな困難があっても郵政の一員であろうと決意していた。
いざというときに備えて別の道を探ってはおくが、吉村自身の退場はまだ先のことだろうと息を密かにした。
(第二十一話)
(2007/07/16より再掲)
⁂この回をもって全21話の完了です。長い間ありがとうございました。
それでもそういう危うさと愛おしさをはらむ人生を丁寧に歩む、生きることへの共感を読ませていただきました。
ありがとうございました。
今回の小説も実人生も人は微妙なつながりの中で生きているのでしょうね。
おっしゃる通り、そういう危うさをはらんだ人生を愛おしみ丁寧に生きることがこの世に生を受けた者の使命かと思います。
あらためて生きることへの意欲を掻き立てられました。
間断ない励ましに感謝申し上げます。
途中まで(絶対くぼにわさまは郵便局の関係者だと思いながら読んでいました🐻配達の方のご苦労など・・考えさせられる場面がありました~)
あと、いつもながら「多摩川競艇」など身近な地名が出てきてウキっとしましたし⤴✨有楽町・数寄屋橋に関して書かれていたくだりではとても共かん(感)いたしました🍀✨
「格言にめっぽう弱い吉村」と「新婚さんいらっしゃい」みたいな番組が出てきたところは笑いましたよ⤴✨🎶
リアル部分とフィクション部分が同居していますがクリンさんは読み分けられるので助かります。
全部が実話みたいな誤解が一番厄介なのでうれしいです。
吉村くんのお兄さんの結婚式は新婦の親代わりのスナックのママさんが放送関係者を巻き込んで「新婚さんいらっしゃい」みたいな番組に出演する形にしました。
笑っていただけて光栄です。
昔の有楽町・数寄屋橋の賑わいはもう知る人も少なくなりました。
共感していただけてほっとしました。
全21話を丁寧に読んでいただき心から感謝申し上げます。