最悪期を脱した林葉直子
☆(以下、画像も含め、二つの記事から引用)
林葉直子「余命1年」から対局復帰まで回復の奇跡
① 2019年11月25日(月)6時0分 アサ芸Biz
元女流棋士の林葉直子が将棋イベントに参加したことを11月20発売の「週刊新潮」が報じた。林葉は元気をアピールするも、その姿は衝撃的だった。
林葉は11月10日、兵庫県姫路市内で開かれた将棋イベントに参加。将棋を指すのは、2010年に行われた「日レスインビテーションカップ・第4回女流棋士トーナメント」以来、9年ぶりだというが、同誌の取材に林葉は体調がよいことをアピール。今後も将棋関連のイベントへの参加や、コメンテーターにも挑戦したい意向を示した。
林葉といえば、2014年に出版した「遺言—最後の食卓」で、重度の肝硬変を患っていることを告白。病状はかなり深刻で余命1年を宣告される。しかし、17年6月の「女性自身」が、林葉の容態が好転していたことを報道。同誌の取材を受けた林葉は、「肝硬変の度合いを示すグレードが重度のCから軽症のAになった」と報告。肝機能の指標となるγ—GTPも1200から18まで下がった(成人女性の正常値は32以下)。林葉によると、禁酒し、塩分の少ない食事を続けた結果、肝機能が改善してきたという。
体調は引き続き良好なのか、今回の「新潮」の記事でも、笑顔で将棋を指す林葉の写真が掲載された。しかし、その写真は衝撃的だった。
「肝硬変を患ってからは、林葉のやつれた顔はたびたび報道されてきましたが、今回の写真はこれまで以上にショッキングでした。長年に渡る病気の影響だと思いますが、とても51歳には見えません。本人も『見た目は“オバケ直子”だから』と言っているようですが、体調は良くなっても顔に肉がつかないのだそうです」(芸能記者)
将棋だけでなく、かつての美貌の復活にも期待したい。
(石田英明)
元気なころの林葉直子
2014年ごろ目にした記事では、肝硬変で余命1年を宣告されたと聞き、彼女のファンだった一人として悲痛な思いに陥ったものです。
それが、少しずつ回復しているらしいんです。
嬉しいじゃありませんか。
なぜかって?
実は大分前、ぼくは林葉さんの師匠である故米長邦夫さん宅の近くに住んでいたんです。
将棋好きなら知っている『鷺宮流』という将棋の定跡の名づけ元となった町です。
地元の商店街で、ご夫妻そろって買い物をする姿を見かけたことがあります。
当時、内弟子だった林葉直子さんと先崎学くんは小競り合いしながら将棋を学んでいたそうです。
お姉さん格だった林葉さんは、先崎少年をいいようにあしらったと聞いています。
直接見かけたことはありませんが、お二人も同じ町の空気を吸っていたことは間違いありません。
間もなく二人は昇段を重ね、勝負師として活躍するようになったのですから、米長さんも目を細めていたことでしょう。
さて、また引用ですが、林葉直子の略歴を記して置きます。
② 林葉直子さんは1968年1月24日生まれの51歳です。
出身地は福岡県福岡市、高校は第一薬科大学薬学部中退、11歳の時、女流アマ名人戦で優勝、14歳で歴代最年少で初タイトルの女流王将に。
林葉直子さんといえば、中原名人(70歳)との不倫騒動で世間をにぎわせた時期がありましたね。
その事が原因で対局をドタキャンしたり、失跡騒動などで日本将棋連盟から破門された林葉直子さん。
14才3か月で女流王将タイトルを獲得し(史上最年少)、その後10連覇した林葉直子氏(撮影/弦巻勝)
彼女は輝いていた。将棋界に颯爽と現れた天才少女。大人の好奇な視線を浴びながらも、けらけらと笑い、男たちをなぎ倒していった。ドラマやCMに出演し、小説を執筆すればベストセラーを連発した。
彼女は堕ちた。永世名人との不倫を告白し、将棋界と決別。孤独を埋めるかのように酒をあおった。肝硬変を患い、郷里福岡に戻った。5年前、余命1年を宣告された。
彼女は現在も生きている。
林葉直子、51才。今何を想うのか。元「将棋世界」編集長で、12才の頃から林葉を見てきた作家・大崎善生氏が彼女のもとを訪ねた──。
* * *
今から5年前のことになる。
2014年の正月。1冊の本が出版された。ワイドショーなどで話題になり、やがて私の目にも零れ落ちてきた。それが「遺言」という題名の書下ろしで、著者は林葉直子とある。治療不可能な重度の肝硬変を患い、末期の病床からのメッセージをまとめたもの。
死を間近にしたお騒がせ林葉の、最期の叫びという触れ込みであった。そのとき林葉は46才。もちろん死ぬような歳ではない。しかし手の施しようのない末期の肝硬変で、体重は38キロ、γ-GTPは1200を超えていた。
東京で診てもらっている時から腹には腹水がたまり、医者から「お臍がぴょこんと飛び出したら終わりですから」と言われていた。「あっ、そうですか」と林葉は明るく笑ったが、実はすでに臍は飛び出していた。それが肌着に擦れて痛くて仕方なかった。東京から故郷福岡の病院に転院し、助かるには移植手術するしか道はないと告げられた。
余命、1年。合併症を起こしたら、いつ死んでも不思議のない状態だった。
本の中に編集部に最後の望みを聞かれ、「チャーシューを腹一杯食べたい」と答え、笑うやりとりがあった。さすがに胸が苦しくなった。
完全に死を意識し、人生の瀬戸際にあることを受け入れ開き直っている姿がそこにはあった。
◆1980年──少女は美しく、聡明だった
1980年、私は23才の学生だった。親の反対を押し切り札幌から東京へ出て、小説家を夢見て即座に挫折した。
何の当てもなく何の夢もなく、ただ毎日ぶらぶらと飲み歩いていた場末のバーで偶然に将棋と出会った。どうしても勝てないマスターに、どうしたら強くなれるのかと聞いたら新宿将棋センターを教えてくれた。将棋が強くなりたいんだったら、そこに通うといい、ということである。
翌日に新宿歌舞伎町にある将棋センターに足を踏み入れ、その凄まじい光景に言葉を失った。200人以上もの老人や、サラリーマンや、非番のタクシー運転手や、そのほか得体のしれない男たちが、水銀灯に集まってきた蛾のように吸い寄せられ、物も言わずにパチパチと将棋を指しているのである。
そんな場所におよそ似つかわしくない美少女が、毎日のように通っていた。用心棒のように坊主頭の小学生を引き連れていた。その澄み切った美しさをたたえる少女こそが、林葉直子、12才、アマ四段。そして用心棒役のチビが先崎学、小学4年生、同五段。2人で腕自慢の親爺たちをバッタバッタと面白いようになぎ倒していくのだ。しばらくして2人が米長邦雄九段門下の内弟子であることを知った。
2人は師匠の命令で学校が終わってから毎日、この将棋道場に通い腕を磨いていたのだ。道場の猛者連に交ざり、林葉といえばまったく見事なものであった。一手、一手、ほとんど考えない。それでいて指手は必ず急所をえぐる。
将棋を指すために作られた、精緻なロシア製の人形を見ているようだった。薄暗い道場の中にあって、まるで林葉だけは別次元の光に囲まれているようだった。中学1年少女の放つ、美しさ、聡明さ、愛らしさに多くのギャラリー同様、私も見とれていた。
そんなある日、用心棒役の少年が受付でごねだしたことがあった。この少年も、将棋は五段、理論や理屈も子供離れしたところがある。小学4年のくせに愛読紙は日経新聞で、師匠に今はドルを売るべきだと力説して驚かせた。
その先崎が受付でごねている。たまたまその日は成績が悪く、もう一局指させてくれと泣いているのだ。9時までがリミットと師匠に厳命されている。しかし先崎ももう一局指させてくれと、一向に引き下がる気配はない。
小学生の駄々に困り果てた手合い係たち。そこに対局を終えた林葉がツカツカツカという感じで現れた。そして「帰るわよ、先崎」。「僕、もう一局指したい」と泣きながら粘る先崎の頭を、林葉は思いっきり引っ叩いた。なんとも鮮やかな一瞬。その瞬間に先崎は泣き止み、林葉の後を追うように道場を後にした。
実はこの後、新宿将棋センターから駅への地下街で、先崎は林葉のウインドウショッピングに1時間近くも付き合わされるのである。
もちろんそんなことは師匠には秘密だ。「だったらもう一局」と先崎が言うのも無理もないのである。しかし再び林葉は問答無用で弟弟子の頭を引っ叩く。
私も林葉と何局か指した。小説に挫折し、将棋に嵌った私は、ただひたすら朝から、真夜中まで将棋を指し続けていた。林葉は煙草に弱いという噂が常連たちの間でもっぱらだった。中学1年生の女子なのだから、それも当たり前かもしれない。道場は喫煙可で相手に煙草の煙を吹き付けたって反則ではない。
ある将棋の終盤戦で少し悪くなった私は奥の手とばかりに林葉に煙草の煙を吹きかけた。勝つためには反則以外は何だってする。すると俯いて将棋盤を眺めていた林葉が、煙に反応した。切り裂くような鋭い視線で、私をにらみ据えたのである。
◆2019年──赤いワンピースの彼女は現れた
2014年の“遺言”以来、私は常に林葉の動向を気にしていた。新聞紙上に、いつ最悪の報せが流れても、それは仕方がないと諦めていた。その頃にネットに流れた林葉の写真は、それはあまりにもひどいもので、まるで老婆のようだった。その顔を見れば誰もが、これはどうしようもないなと思ったことだろう。
しかし最悪の報は流れないまま半年が過ぎ、やがて1年が過ぎていった。そして何の情報もないまま、いつの間にか5年の月日が流れていた。
その5年間、決して積極的というわけではなかったが、それでも私は林葉を探した。
なかなかコンタクトをとることはできないでいた。それがひょんなことからつながったのが今年の初夏、あるパーティーのあと将棋関係者と飲んでいた。すると酔っ払ったある1人が「ほらっ」と私に携帯を差し出した。
「もしもし」と相手もわからないまま私は言った。「もしもし」と微かに聞き覚えのある甲高い声が響いた。そしてその本人は「林葉です。林葉直子です」と続けるのであった。電話の声を聴きながら、連絡が取れたからには会いに行かなければならないと考えた。将棋界から、あるいは世間から、完全に消えてしまった林葉直子を再発見するのだ。
9月初旬。私は東京の自宅を出て6時間かけて新幹線で博多駅へと向かった。それから林葉と待ち合わせたホテルへ。博多は小雨が降りだしていた。時間通りに林葉は現れた。インドのサリー風の赤いワンピースを身にまとっている。げっそりと頬がこけ、やせ細ってはいるが、末期の肝硬変を5年以上も生き延びてきたのだからそれも無理はない。挨拶をする。二十数年ぶりの再会だ。しかしその大きな時間は、目と目が合った瞬間に綿あめのようにどこかへ溶けていってしまった。
まずは現状を聞く。
5年前に肝硬変と診断され、肝移植しか完治の見込みがないと言われたのだが、今はなんと、もっともよい数値に戻っているという。福岡に戻ってからの完全禁酒と、治療薬療法が功を奏したという。
しかし肝臓病の副作用は全身に及んでいる。3年前にはマンホールのわずかな段差に足をとられて転倒。大腿骨骨折の重傷。それももとは肝硬変による骨粗しょう症が原因という。自宅の近くではあったが、林葉は家まで足を引きずり歩き帰ったという。それから病院にも行かずに自室に引きこもった。姉が車いすを持ってきてくれてそれに乗って過ごしていたが、痛みは引かないまま3か月が過ぎた。
病院へ行くのはいやだったが、ついに諦めた。検査の末すぐに手術。人工骨でつなぎ合わされた。医者からは骨折した場所からいったいどうやって歩いて帰ったのかと驚かれた。不可能でしょう、と。
林葉はけらけらと明るく笑いながら語り続ける。
「真面目な話ね。いつでも死にたい、なんで殺してくれないの、神様、と思うの。じゃあ宝くじを当てるために生かしてくれてるんだとか、変なことも思ったり。肝臓を移植しないと完治はしないと言われてます。でも、して治る人もいれば、ダメな人もいる。どっちもどっちならしなくていい、と。最近は、何もしてないのに生きてるのはありがたいと思うようになったのよ」
このように長文の引用が許されるかどうかわからない。
だけど、『将棋世界』という雑誌を長年購読していたのだから、編集長だった大崎善生さんには大目に見てもらおう。
それに、熱帯魚が登場する大崎さんの短編小説のファンでもあるのだから。
記事の中で、はっとした個所があった。
林葉さんの述懐が、胸に染み入ってくる。
<何もしていないのに、生きてるのはありがたいと思うようになったのよ>
この一言は、林葉直子さんからの時間を超えたメッセージだと思う。
世の中どんなことがあっても、我慢できる人は必ず危機を乗り越えられるんだ、とぼくは彼女の言葉を復唱した。
(おわり)
棋才だけでなく、天与の美貌も含め、たくさんの才能を付与された少女を、神様が嫉妬したとさえ思ったものです。
彼女は切れすぎました。
内に激しいものを抱えて、自分を制御できなかったのではないかと。
記事の通り、破綻も壮絶でした。
だからこそ、われわれを引き付けるのかもしれません。
大崎さんの小説、いいですね。
最初から、小説家を志して上京したことを知り、いっそう身近に感じました。
コメントありがとうございました。
その言葉は奥が深いですね。
生まれてきただけで価値がある・・・その存在が誰かの役に立つか立たないかなどということにかかわらず、この世に存在するだけで意味があるということなのかもしれません。
大崎さんの小説は私も好きで、ずいぶん読みましたが、人の行為を徹底的に肯定していて奥深い。