<よみがえった映画>
令和元年8月16日深夜24時から「ひろしま」という映画がEテレで放映されるが、見たことありますか。
友人から電話があったのは2時間ほど前だったろうか。
友人自身は小学生のころ学校が催す映画鑑賞の時間に見たことがあるが、その後GHQの方針で映写が差し止められ、以後幻の映画となっていた作品だということだった。
終戦後8年ほど過ぎた1953年、教職員組合が中心になって資金を出し合い、数名の役者さん女優さんを軸に多くの広島市民が参加して完成させた映画らしい。
ぼくの田舎ではどうだったのだろう。
教職員組合が主体になって制作した映画ということだから「ひろしま」が映写された可能性はあるが、ぼくの記憶にはまったく残っていない。
友人が教えてくれた映画の概要を頼りに、眠い目をこすりながらチャンネルを合わせた。
映画が始まると、空襲警報が解除になった後、不審そうに空を見上げる人びとの表情がアップされる。
その直後に、画面がフラッシュバックしたように白熱化する。
原爆が投下され爆発した瞬間だ。
多くの建物や登場人物が、爆風で破壊され焼かれる。
一瞬、ドームの壁に白抜きの人型が刻印される映像が頭に浮かぶ。
だが、この映画は違った。
親を探してのろのろとさまよう女や、妻を押しつぶす柱に悪戦苦闘する男の姿がロングショットで記録される。
そう、これは映画という作り物ではなく、現実だと認識させる。
生と死を描いた映像ではなく、生でも死でもない中間の状態、あえて言えば生体のうごめきを描いた作品である。
しんどい映画だなあ。・・・・それが嘘偽りのない気持ちだった。
自分の中で、これまで感じたことのない苦痛。
生殺しのような生体ののたうちを追い続けた映像に、岡田英次や山田五十鈴の存在すら浮いて見える。
<結果に追いつかない人間の想像力>
戦争に限らず、事故や事件でも、起こった結末を当事者はほとんど予測できていない。
映画「ひろしま」からぼくが受け取った印象である。
エノラ・ゲイの操縦者は、キノコ雲の下で多数の死者が生まれるのを予測していたかもしれないが、何万もの人びとが生にも死にも向かえず、ただうごめいていたことを想像できなかっただろう。
漢字で「蠢く」と書くと、その悲惨さがよくわかる。
春の気候の下で虫が動き回るイメージである。
世界中で起こっている紛争の一つひとつに、生体のうごめきが付きまとう。
人間は想像力の希薄な、やり切れない存在である。
映画「ひろしま」は、その蠢きを酷暑のさなかに突き付けてきた。
<「ヒロシマ」と「ひろしま」>
ぼくはかつて『するめ』という詩を書いた。
原爆からの連想を、するめに託して表現したものである。
詩集発行時に、商業詩誌「詩学」に取り上げられたので、当時はそれなりに力づけられたものだった。
「するめ」
するめを食うかクチャクチャ噛めばよわい日差しの味がするするめ
ムシロの上でひっくりかえし表ひっくりかえし裏くりかえし、海が
揺れていた目玉はどこか砂のなかにでも転がり落ち抗議のくちばし
も簡単にひんまげられた。するめきのうは青空に励まされきょうは
腹ばいでもうおしっこも出なくなった。自分でわかるかどっちが背中
だよわい日差しの味がするするめ、このするめはどこの産だ。頭の
ヒラヒラは北海道、胴は本州で足は・・・ない。するめ足があるのに
適当な比喩がない日本列島、地図をひっぱり出してさがすさがせども
九州足にしては太すぎる。もう一度するめをよく見て気がついたヒロ
シマナガサキピカドンするめの顔はなんであんなに足に近いのか。
世界一の夜明けはあんまりしあわせすぎて気をうしなっていたその
ひまに癒着していた足だナガサキ九州だ。もう暮れることのない天を
仰いだまま、するめの顔はなくなっていた目玉砂浜に転がり夜になる
とチカチカ光っているが、わざわざ食えないシロモノをさがしに行く
奴もいない。するめ裏もなく表もなくひっくりかえしくりかえし焼かれ
よわい日差しの匂いが都会の隅から、隅の屋台から屋台の汚い皿の
上からつままれた震える指のあいだから食われた口のひん曲がる端
から夜更けの裏通りをながれ・・・。日本人顔のない目のない裏表
はっきりしないするめが好きだが、なかでも癒着した足を一本いっぽん
切り離した夢みたいなゲソ好きだ。背中が見たか腹が見たか両方見た
はずの碧空を想い、青い海でゆうゆうとしたおしっこもう出なくなった
こののっぺらするめににやりと笑い、安酒とはいえ欲しいとき飲める
わが身をほくそえみいつまでクチャクチャ夜は更けていく。しだいに人
びと去り人去り残った奴、いつまでクチャクチャいくら噛んでも食った
という快感わかぬするめを途中で呑みこみ、消化不良が食道をさがって
いくのを不安げに意識しながら、口に残った旨いともまずいともいえぬ
化け物の味に茫然としている。
今思うと、あまりにも実態を理解しない作品である。
観念的なヒロシマをもとに、表現の面白さのみを追った不埒な比喩である。
懺悔の気持ちを込めて、ここに恥をさらす。
若気の至りというより、被爆の本質を理解できなかった能力の至らなさである。
今回初めて、生体のうごめく姿を突き付けられて暗澹たる気持ちになっている。
映画「ひろしま」は、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』や井伏鱒二の『黒い雨』とは異質の衝撃をもたらした。
個々人の確立した人格を尺度とするものではなく、生体の群れが虫やアメーバのようにうごめくさまが無性に怖さを呼び起こす。
繰り返しになるが、人間は誰でもうごめく事態に遭遇する可能性にさらされている。
ヒロシマではなく、ひろしまを延々と見せ続けた制作者の意図が「蠢き」にあったのだとすれば、この映画は途方もない影響を与えるに違いない。
(おわり)
参考=大高宏雄の新「日本映画界」最前線
(https://news.infoseek.co.jp/article/gendainet_565148/)
参考=映画ナタリー
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190806-00000047-nataliee-movi
被爆死した方々の遺品や写真が、無言で語りかけてくる。
遺品にまつわる楽しい思い出だったり、明るい笑顔の写真だったりが、断ち切られた生の重みをより意識させるに違いありません。
映画「ひろしま」とは別の伝え方・・・・ウォーク更家さんのおっしゃる「生きたくても生きられなかった”悔しさ”」が、新しい展示方法によって静かに立ち上ってくるのではないでしょうか。
先日、平和記念資料館のリニューアルオープンのニュースをやっていました。
被爆の実相をより分かりやすく伝えるという視点から、これまでの資料館の展示方法を見直した、と言っていました。
被爆死した赤ん坊から児童まで、1発の爆弾で、その生涯を入口で閉じてしまった人々の遺品と写真を、粛々と並べたそうです。
「蠢く」という観点とは異なるかも知れませんが、悲惨な光景よりも、「生きたくても生きられなかった”悔しさ”」が静かに伝わる様に、といった見直しの趣旨の説明をしていました。
なるほど、これもまた、広島の悲惨さを語り伝える一つのアプローチ方法かな、と思いました。
映画「ひろしま」は知らなかったので、次の機会に見たいと思います。
原爆がもたらした衝撃がいかにすさまじかったか、今頃になって波紋のように押し寄せてきました。
ぼくは映画というより現実の再現として深刻に受け止めましたが、知恵熱おやじ様の懇切な解説でより深く制作状況を理解することができました。
被爆し白血病を発症した女の子を中心にしたストーリーではありますが、被爆直後の惨状を再現する広島市民8万8千人の参加者が主役の映画だった気がします。
自らの至らなさを感情的に吐露しましたが、そんな詩作品にまで触れていただき、恐縮しています。
いろいろご教示いただき、感謝申し上げます。
映画『ヒロシマ』デジタル修正版は私もNHK・TVで観ました。
戦後間もないとき、進駐軍の検閲と規制が厳しい時代によく制作できたものと、本当に驚きの作品です。
原子雲の下もで焼け爛れ蠢く人々を8万8千人にも及ぶ実際の被曝者を動員して描いた恐るべき再現画像の連続(撮影には爆心地に建てた広大な被爆直後の街を使って行われた)には、涙と怒りを禁じえない。
製作当時15館でしか上映できなかったため実際にはあまり見た人のなかったこの映画の価値を発見したハリウッドの社会派映画監督オリバー・ストーンの尽力で、デジタル修復され、いまになって世界各国で上映が行われつつあるということです。
核廃絶が絶望的になってきて危うさが増すこの時代、この映画は「人類の宝」と言っても過言ではないと思います。
日本でも映画館での上映をぜひ!!!
窪庭さんの詩『するめ』ももう一つの視点から素晴らしい。心の中から感情を引っ掻き回されます。ありがとうございました。