差塩と趣味の世界

故郷 福島差塩の想い出と徒然なる盆栽奮闘記

終戦記念日

2008年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は終戦記念日です。当時のことを思い出し振り返ってみました。

 国民学校三年生の夏

学校の防空壕の補強材として山の木を切りに出かけ、自分たちで運べる本数を上級生とともに担いで家に着くと、父母たちが戦争に負けたらしいとの噂で大騒ぎをしていた。で1軒しかない店のおじさんが噂の発信源らしい。「そんなことを言うやつは巡査に引っ張られるぞ」、「非国民だ」などといっていたが、やがてラジオの雑音の中で天皇陛下の声や大人の雰囲気で自分なりに敗戦を確認して大泣きをしたものである。

 それまで、日立の工場が艦砲射撃されたとか、平(現いわき市)の小学校に1トン爆弾が落とされたとか戦争被害を大人たちが話題にしていたし、山間の村の上空高くグラマン艦載機が編隊を組んでいくと暫くして地響きとともに爆弾の音、音,郡山市周辺の工場や飛行場爆撃し、身軽になった艦載機がバラバラになって駅の給水塔とか鉄橋とか鉄道施設を連日のように機銃掃射していく姿がその日を境にパタリと見られなくなった。

 しばらくして学校がはじまり、教科書の一部に原稿用紙を貼って別の文字を書き加えさせらたり、新聞紙のような教科書が配られたり(各自が切り取りして紙縒りで綴じさせられた)、習字の時間がなくなり、ローマ字の学習が始まったりと大きな変化が起きた。今考えると、当時はあまり疑問も感じず先生の指示通りに受け入れていたが、多くの先生が方は苦悶しただろうと思う。

 時に田舎に帰省すると、学校の防空壕も松の根を掘り出し炭窯のような所で松根油を搾った場所もその痕跡すらなく、そこに存在したことすら知らない村人が大半である。平和な時を大事にしたいとつくづく思い次第である。   (習字は精神統一し、に武士道につながり軍国少年を育てるという理由とか先生は話した)