老人会の会報の編集に当たる。原稿募集したところ、10人ほど投稿してくれた。有難いものである。原稿を読ませて頂くと、各人各様の人生の歩みや思いが伝わり勉強にもなる。それぞれの思いが充分に生かされるよう心して編集に当たりたい。今後、原稿募集にも工夫し、多岐にわたる内容にと考えている。
老人会の会報の編集に当たる。原稿募集したところ、10人ほど投稿してくれた。有難いものである。原稿を読ませて頂くと、各人各様の人生の歩みや思いが伝わり勉強にもなる。それぞれの思いが充分に生かされるよう心して編集に当たりたい。今後、原稿募集にも工夫し、多岐にわたる内容にと考えている。
退職して13年目になる。未だに後輩の退職を祝う会に誘われることがある。年とともに世界が狭くなりつつある時、こんな誘いはうれしいものである。今日は気の置けない連中からの誘い楽しいひと時を過ごすことが出来た。それにしても話題は、タイムマシンに掛ったかのように当時をありありと語ることとなる。旧交を温めるとはこういうことなのであるろうか。
自分史をこういう場で、第三者から評価されるとお世辞であっても懐かしい思う出として心温まるものがある。T君お疲れ様でした。再雇用頑張ってください。
このところ涼しい日が続くが、職場の暑気払いを立川のTホテルで行う。普段居酒屋で行うのが通例だが、幹事さんの案内で参加することとなった。
畏まっての会は苦手であると思っていたが、酒量とともにいつもの宴の楽しさを満喫して帰宅することとなる。暑気払いなどといって人の交流を図り、英気を養うこととなるこの先人の文化は大切にしたいものである。
それにしても酒量は年齢とともに減少してきた。健康維持のための摂理であろう。よく出来たものである。若いときはそうはいかず痛飲したものだが、、、。
8月1日から、戦前戦後の苦しい時期に小学生時代を過ごした思い出を記して来た。まだ書き足りないことが沢山あるが、またの機会にして一応このシリーズは終わりにしよう。
それにしても、今日の経済不況を[百年に一度]などと言う人たちがいる。それは、当時の生活困窮振りを知らないか、それとも勉強不足で理解できない方々の表現としか思えない。的を得た評論をするコメンティターでさえそう言っている。経済危機の質は違うが、当時の庶民の苦労を知って欲しい、僅か60数年前のことである。
食糧難の時代では、余裕がなかったのか輸入されなかったの分からないが、砂糖を手にすることが出来なかった。あっても高価だったのだろう。従って、甘い物を口にすることが出来なかった。
そんな時、砂糖の何十倍も甘い甘味料が市場に出るようになった。サッカリンやズルチン等の人工甘味料である。しかも安価であった。料理などに使うようになって甘味欠乏症のものにとっては助かった。金平糖の十分の一ぐらいのサッカリンを手のひらに載せなめたりした。その後、癌になるなどと言って使われなくなったが、、、。今は解禁されているらしい。
甘味欠乏症の後遺症か、今でも甘い物には目がない。
衣類なども当時はなかなか手に入らなかった。売っているのは粗悪品ばかり、特に印象にあるのは人絹やスフといっていたもので出来た製品である。一見光沢がある絹のような感触だが、弱くすぐボロになってしまうような代物であった。母は子たちの衣類調達に苦労していた。今人絹とかスフといっても知らない人が多いが、、、
そんなわけで継ぎ接ぎだらけの衣服や着物を着ているのが当たり前であった。今日では繕いをした服を着ている子なんて見ることはできない。ファッションとして楽しんでいる若者がいるが、、、?。
戦後極端な物資不足は、あらゆる面に及んだ。前述の食糧不足はもちろん生活物資なども求めようにも店で売っていないのである。石鹸なども不良品が多く、不衛生な生活を強いられた。今では考えられないことだが、蚤虱に誰もが悩まされたのである。そんな中アメリカ軍が持ち込んだDDTは、これらを駆除するのに大いに力を発揮した。今でも忘れられない光景を思い出す。
郡山の駅で待っていた人たちに、噴霧器のような物を持っていた白衣の方たちが強制的にDTTを散布したのである。誰もが頭から下着の中までうどん粉かぶったようになった。しかし、不平を言う人はいなかったように思う。それだけ蚤虱に悩まされていたのかな。
DDTは発ガン物質であるなどは誰も知らない時代である。虱は恐ろしい発疹チフスの媒体である。
戦後様々な制度が改革された。その一つに農地改革(農地解放ともいった)がある。少年Aの家でも一部農地を貸していたのだが、この制度は、国がその農地を半ば強制的に買い上げ、借りていた人に売り渡してしまうのである。
Aの父は、悪徳地主でも不在地主でもない。兵隊にとられ人手が足りないし、農地の一部を困っている人に貸していただけである。農家にとって先祖伝来の土地を手放すことの悔しさは、相当なものであったのだるう。大人たちの会話から子供心にも理不尽な出来事として印象に残っている。
私有財産を国が強制的に取り上げるなど公共ため以外今日では考えられないことであるが、、、。当時GHQマッカーサーの命令には、誰もが逆らうことが出来なかった時代である。なんでもマッカーサーと言えばまかり通ったのである。
食料の配給制度は以前記したが、戦後の極端な食糧難時代は多くの人々が苦労したのである。我が家は、配給所もやっていたのでよく記憶している。米穀通帳を持って来ても配給すべき米がないこともあり、代用食として役所からくるサツマイモなどはいい方、杏の乾燥した物、トウモロコシの粉、ケチャップ(米軍の余剰物資)などの配給もあった。真っ赤なケチャップと言う物をはじめてみた、口に合わなかった。
多くの人はお腹をすかし違法にも闇米を求めたのである。そんな中、食管法を遵守し国からの配給だけで生活し栄養失調で餓死した判事がいた。大きなニュースとなったのを覚えている。(山口良忠判事は、食管法を厳しく守らせる立場にあったこと後に知る)
法律を犯して多くの国民は生き延びたのである。飽食の時代の今日、そんなこともあったことを知ってほしいものである。
戦後農家でも貧しい食事をするようになった。特に稗飯が出たときは母に嫌味を言ったものである。兎に角不味かった。(今でこそ5穀飯などと言って健康食として頂くことがあるが)
《農家でどうして稗飯を、、》と思う方もいるだろうが、当時は強制的に米の割り当て供出制度があり、国が買い上げたのである。ヤミ米に売れば何倍もの値段で売れたが法律で厳しく取り締まった。正直者の父は、自家用の米(保有米といったように思う)を少なくしても国に協力したのである。一反あたり5~6俵位しか穫れない当時、52俵も供出した事があった。そんな訳で麦飯、稗飯、大根飯、芋飯(これは美味しかった)と食べることとなったのである。時には、ご飯の代用食として、水団汁で済ませたこともあった。