90歳で旅立った義姉の葬儀で慌ただしい帰省(一泊二日)となる。田舎では、葬儀の仕方もすっかり変わり、嘗て屋敷周りの人々が協力してそれを仕切り自宅で弔らっていたが。今は大手業者に一切をお任せ執り行っていた。これも時代の要請か。
そうした中においても、地域の互助の精神は温存され、都会では得られない温かみがあった。地域社会の絆は健在である。
田舎の 鎮守の森には、お諏訪様という神社がある。文部省唱歌「村祭り」」にあるように、嘗て例大祭には村は総出の祭りで、夜店でにぎわっていた頃の話などしながらお参りをしてきた。
赤紙一枚で召集されると、必ずこの神社できて武運長久を祈り、村人に挨拶をして出征される慣わしだった。鬼畜米英の打倒を滔々と話した兄も無事帰還し、八十路半ばで元気であるが、若くして戦場に散った村の先輩たちを想うとしんみりとなる。
当時は小学生も動員され、神社でその挨拶を聞かされたのである。挨拶の仔細は覚えてないが、勇ましい兄だと想ったものである。それを話すと兄は苦笑するのである。
村祭りの歌詞3番には、、、
治まる御代に神様の
めぐみ仰ぐや村祭
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
聞いても心が勇み立つ
帰省の折、懐かしい炭窯があったので撮ってきた。炭窯?といっても理解できる人は少なくなったが、化石燃料全盛時代の今日では無理もないことである。
戦前・戦後の時代は、大都会は別として燃料と言えば木炭である。台所も暖房も木炭が主流だったのである。その木炭を作るのが炭窯である。田舎では多くの人が冬場の仕事として炭焼きに従事していた。専業にして人も居たように思う。
前述の無人駅には貨物のホームもあり、日に何百俵も貨車に積まれ都会に運ばれていたのを記憶している。今ではめったに見ることが出来ない炭窯を目にして窯がはきだす煙の臭いと共に懐かしさがこみ上げてきた。七輪でご飯を炊いたことも、、、。
化石燃料が枯渇したら、また木炭が重宝されるかな??。