30数年前、多くの女工さんが相対し顕微鏡を使ってシリコントランジスタの配線をしている工場を見学し、その機能は真空管の比ではないと説明され驚いたものです。しかし、その後進歩はLSIという1平方センチメートルにも満たないチップ上に演算、制御、記憶機能を持った物が発明され、いわゆるハイテク製品に使われ私どもは利便さ・快適さを知らぬ間に享受しています。
そして、それらは子や孫達を取り巻く世界でも例外ではありません。数々のハイテク玩具,ゲーム器などはその典型でしょう。しかも彼らは苦もなく使いこなし、不都合があればネットでその処理を調べ楽しんでいて私どもの比ではありません。
併しこうした玩具で遊ぶ彼らは、ゴム飛行機を作り如何にして飛ばすかといった創作の喜びや壊れたゼンマイ仕掛けのブリキの車を修理して走らせた時の成就の感激といった遊びによって伸ばされるものが欠けているように思えてならないのです。
今後も留まることの知らない人間の英知はますます深められ、結果として豊かさ、便利さの追求はどこまでも続くのでしょう。併し子どもの世界ぐらいは不便で、不足があって自らの創意・工夫を求められる環境を整えてあげたいと思うのだが、古いかなあ,、、、個々にブラックボックスのキイを叩き機能のみを楽しんでいる子らを見て可哀想に思えてならない。
Aが小学校、いや国民学校(当時はそういっていた)に入学する前年、失火により学校は全焼してしまった。すぐに再建と言うところだが、当時は戦争真最中であり、貧乏な阿武隈山脈の中にある1寒村では、そんな余裕などない。ましてや1村では、財政が持たず隣のS村と今では聞き慣れない合同村として政(まつりごと)を行っていたのである。
学校は一日たりとも休むことは出来ない.校舎の確保である。の空き家を使うことが決まり、Aの家を校舎に決定し、移ってきた。Aの親戚が南米ブラジルに移民として行ったため屋敷がそのまま残っていたことや、前にも記したが、養蚕農家であり蚕室を持っていたのである。従って百名近くの生徒が不自由ながらも学ぶことができたのである。
Aが入学したのは我が家であり、歩いて三分とかからない。従って登校するするときや下校時の友との語らいなどの楽しさは、校舎が再建する高学年まで知ることが出来なかった。従って、先生方の次のような台詞はAにとっては耳にしたくないものであった。
「道草しないで早く家に帰りなさいよ」 友達がランドセルを背にし楽しそうに帰っていく姿をうらやましく眺めていたものである。
図工の時間、戦時中の子達は、軍艦か戦闘機を描くのが定番だった。ある日K君が24色のクレヨンを得意げに持ってきた。そこには、7色のクレヨンケースにはない金色や銀色もある。聞けば東京のおじさんからのプレゼントだという。
例のように飛行機を描くことにしたAは、銀色を貸してくれることを申し込んだ。新品のクレヨン故すぐにはOKがでない。何度も哀願し,今では定かではないが何か取引をして借りることとなった。銀色や金色のクレヨンを手にし、喜び勇んで飛行機を描くこととなる。Aは、操縦士にでもなった気分で力を込めて描いているその時、ポキッと銀色クレヨンがおれてしまった。
すぐにK君にお詫びをすればいいのに普段何かと威張っているAは、貴重なものを折ってしまったことに動転し,とっさに着物の袖に隠してしまった。やがて片づけの時間となり、大騒ぎとなる。K君にとっては親切心で貸したのに無くされて悔しい想いが一杯である。犯人捜しとなったが、銀色のクレヨンは2,3人の友が借りている。誰も自分ではないという。当然威張っているAも、返したと言い張りとおした。
その後、「実は、俺が折ってしまって君に責められるのがいやで隠してしまった。ごめんね」という機会を持とうとしたが、未だに言い出せないでいる。K君は、既に黄泉の国へと旅立ってしまったのだが、、、
戦中、戦後と物不足の時代では、子ども達も本当に苦労したものである。そういえば、着物の袖に隠した折れたクレヨンはどうしたのだろう。
養蚕農家にとって夏は,戦場のように忙しくなる。蚕の旺盛な食欲(ー桑をはむ時は雨が降っているような音を立てるー)を満たすために早朝から、夜遅くまで何回も与えるために大量の桑を準備しなければならないからである。
子ども達も総動員される。我が家では、近所の子達にも手伝ってもらっていた。暑い中での桑摘みは、重労働である。その代わり、蚕が繭を作る頃は、暇になり父はご褒美をいろいろ準備してくれたものである。
その年は、海水浴に連れて行く約束だった。朝5時に起きて山道を下り、1時間ほどして川前駅つく、大勢の乗客が待っていた.しばらくして父の言うには「上りの切符がとれない海水浴をやめて郡山に行こう」とのこと。初めての海水浴を楽しみにしていた子達はがっかりするも、汽車に乗れるだけで楽しい我々は2時間もかけて郡山市に行くことを了承した。 当時の我々にとって郡山は大都会何もかもびっくりの連続であった。とりわけ驚いたのは進駐軍(占領軍が正しい)の人々である.初めて見る外国人 偏見がいけないという国際化の現代では、想像もつかない感情がわいたものである。街の子達は、群がりチューインガムやチョコをねだっていたが、田舎ものの我々は遠くで眺めるのが精一杯であった。海水浴が化けて初めて口にするアイスキャンデーで満足し帰路についた。
注 当時は鉄道が混んで切符の発売制限があった。助役に米を持って行って融通してもらったりしていたのを記憶している。賄賂である。
今日は終戦記念日です。当時のことを思い出し振り返ってみました。
国民学校三年生の夏
学校の防空壕の補強材として山の木を切りに出かけ、自分たちで運べる本数を上級生とともに担いで家に着くと、父母たちが戦争に負けたらしいとの噂で大騒ぎをしていた。で1軒しかない店のおじさんが噂の発信源らしい。「そんなことを言うやつは巡査に引っ張られるぞ」、「非国民だ」などといっていたが、やがてラジオの雑音の中で天皇陛下の声や大人の雰囲気で自分なりに敗戦を確認して大泣きをしたものである。
それまで、日立の工場が艦砲射撃されたとか、平(現いわき市)の小学校に1トン爆弾が落とされたとか戦争被害を大人たちが話題にしていたし、山間の村の上空高くグラマン艦載機が編隊を組んでいくと暫くして地響きとともに爆弾の音、音,郡山市周辺の工場や飛行場爆撃し、身軽になった艦載機がバラバラになって駅の給水塔とか鉄橋とか鉄道施設を連日のように機銃掃射していく姿がその日を境にパタリと見られなくなった。
しばらくして学校がはじまり、教科書の一部に原稿用紙を貼って別の文字を書き加えさせらたり、新聞紙のような教科書が配られたり(各自が切り取りして紙縒りで綴じさせられた)、習字の時間がなくなり、ローマ字の学習が始まったりと大きな変化が起きた。今考えると、当時はあまり疑問も感じず先生の指示通りに受け入れていたが、多くの先生が方は苦悶しただろうと思う。
時に田舎に帰省すると、学校の防空壕も松の根を掘り出し炭窯のような所で松根油を搾った場所もその痕跡すらなく、そこに存在したことすら知らない村人が大半である。平和な時を大事にしたいとつくづく思い次第である。 (習字は精神統一し、に武士道につながり軍国少年を育てるという理由とか先生は話した)