清志郎は自由です。おかしいものはおかしい、うざいものはうざい、と臆する
ことなく表現し、「反体制」を貫いているからです。利害関係や権力に拘束
されることを拒否して、圧力や批判にも決して折れることなくつっぱり通して
いますね。たとえ孤立しても。
このように社会的空間のなかで階級色が薄い、すなわちどこかの団体や固定した
地位に属さない人種のことを、ハンガリーの社会学者、カール・マンハイムは
「浮動するインテリ層」と呼びました。
既成の(他人の)考えになびくことなく、体制に対して保守的でも革命的という
わけでもなく、「どちら側」というのを拒否して、自分の意思と感性に基づいて
判断し行動する。自由に浮遊しているのです。ご本人は「インテリ」なんて
呼ばれたら笑うかもしれませんが。
英国の小説家、E.M.フォースターは、自分が憧れる人々を「精神的貴族」と
言いました。それは「感受性が豊かで新しいものを創りだしたり何かを発見したり
はしても、権力の有無など考えない、思慮があり、勇気のある人々」です。まさに
清志郎にぴったり。ご本人は「貴族」なんて呼ばれたら嫌がるかもしれませんが。
清志郎は、反体制ばかりを歌ったわけではありません。実に鮮やかに、そして
しみじみと感情のひだを描くことのできる詩人でもあります。
「君を呼んだのに」
バイクを飛ばしてもどこへも帰れない
バイクを飛ばしても帰りつづけるだけのぼくらは
寄り道をしてるんだ
描き上げたばかりの自画像をぼくに
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが見せる
絵の具の匂いにぼくはただ泣いていたんだ
自動車はカバのように潰れていたし
街中が崩れた
それで君を呼んだのに
君の愛で間に合わせようとしたのに
ゴッホの自画像に見られる、自我がちぎれそうになって狂気に至りそうな苦しみ、
そして手近な愛で癒されようとして失敗するさらなる苦悩。「反体制」なんて
ものは、はるか遠くにおいてきてしまうくらいの感受性を持ち、表現力あふれる
人だったようです。