続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

「歩こう会」

2013-08-08 06:20:07 | 日常
 八月の「歩こう会」は毎年食事会ということになっていて、今年は共済会病院手前の鳥銀での会食となった。
 集合は十時という鉄則?で、十一時まで間があるのを椅子テーブルのあるモアーズでおしゃべり。

 カオルさんは、実母と同居を始め今は半ば介護状態。
「どこへ行くの?」「何時帰るの?」「お昼はどうするの?」「食べるものはあるの?」「どこへ行って来たの?」「遅かったじゃない」
 矢継ぎ早に繰り返される質問攻めに、うんざりしていると、
「あんた恐いね、あんた恐い顔しているよ」と、悲しそうに言われてしまう。そんなに恐ろしい顔をしているかとすっかり落ち込んでいると、今度はプイと母親のほうがどこかへ消えてしまう。
 それこそ何も告げないで出て行くから心配で何も手につかなくなってしまう・・・そういう繰り返しの日常らしい。

「でも元気だからいいじゃない」と、わたし。
「そう、元気すぎてどこへ行ったか自分でも分からなくなって・・・連絡が入って迎えに行くの」

 まだまだそんなに難しい状態ではない。それでもカオルさんにすれば修羅場、毎日何が起きるのかと気に病んでここ半年で4キロも痩せてしまったらしい。


 わたしが、更に老いてどうにもならなくなったら・・・現今では息子の妻に頼れる時代ではない、他人頼りは必至。
 気を確かに持って、自分のことは自分で始末をつける最後まで・・・(悲願)。

 そのためにも「歩こう会」は外せない。どんなことがあっても自分で歩く、歩きたい!そのためにも無理をしても何としても出来うる限り「歩こう会」に付いて行きたいと、思っている。

『ポラーノの広場』52。

2013-08-08 06:11:24 | 宮沢賢治
「このむちですかい。あなたはこの鞭のことを仰ったんですか。この鞭はねえ、人を使ふ鞭ではありませんよ。馬を追う鞭ですよ。あっちへ馬が四疋も行ってますからねえ。そらねこんなふうに。」


☆弁(区別する)講(話)は、便(都合がよい)図りごとである。
 詞(言葉)の弁(備え)を、目で追いかける。
 弁(区別する)場(空間)は、死を畢(しめくくる)光(景色)である。

『城』1357。

2013-08-08 05:57:10 | カフカ覚書
  第八章  ペーピー/中庭での待ち伏せ

 Kは、なによりもまず、女中たちや助手どものひしめきあっている暖房のきいた部屋からのがれてきたことをうれしくおもった。

 ひしめきあって/Gedrang・・・苦境。
 暖房/warmen→barmen/ある人の同情を引く。

☆Kは、なによりもまず女中(権力)や助手たち(頭脳)の同情をひくテーマとしての、死に向かう苦境に、身も凍る思いがした。