続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

無理かもしれない。

2013-09-10 06:30:54 | 日常
 これ以上「歩こう会」に参加させてもらうのは(無理かもしれない)と考え込んでしまう。
 仲間が「もうこの九月で止めようと思っているの」と言ったときには「なに言っているの!続けましょう」と、あんなに強引に押し留めたのに・・・。

「『大丈夫?』ってメンバーから言われるようになったら、その時が退け時よ」と言われた言葉が脳裏に焼きついている。
 その時は、すでに来ているかもしれない。

 何とか自分の足で歩き徹したい・・・これが人生の目的である。

 大掛かりに遠距離を歩かなくても、日々の散歩を敢行することで十分じゃない、その方がずっと効果的。《分かっている》ただその一歩が踏み出せない。家にいると何かしら用がある、それが済んでからと言い訳をしているうちに日が暮れてしまう。つまり出不精の癖。
 この日に《出なければならない》という切迫した事情がない限り、外に出ることができない。だから運動不足で膝に支障が出たのかもしれない、悪循環・因果な話である。


 近所の90過ぎのAさんの元気、分けてもらいたいな・・・。お砂糖、お醤油が特売なら山の上のスーパーだって買いに行く。(わたしなんか端から諦めている)そうした些細な日常の努力の積み重ねが頑強さを保つ秘訣、そう在りたいとは夢想するだけのわたし。そう在りたいと希望して入った「歩こう会」リミットは近づいているけれど、もう少し頑張って(無理して)みようかな。

『ポラーノの広場』85。

2013-09-10 06:16:46 | 宮沢賢治
わたくしどもはじつにいっぱいに青じろいあかりをつけて向ふの方はまるで不思議な縞物のやうに幾条にも縞になった野原をだまってどんどんあるきました。


☆照(あまねく光があたる=平等)の考えは、法(仏の道)である。
 部(区分けする)詞(言葉)を疑う(疑問を持つ)講(はなし)である。
 仏になった鬼(死者)の状(ありさま)の講(話)は、夜に現われる。

『城』1390。

2013-09-10 06:02:45 | カフカ覚書
「フリーダは、たしかにこの部屋にあると言うんだ。いったい、ここはだれが泊まっているのかね」と、Kはたずねた。
「どなたも泊まっていらっしゃいません。ここは、城のお偉がたのお部屋で、ここでお酒をめしあがったり、お食事をなさったりします。つまり、そういう目的のためにとってある部屋なんです。でも、たいていのかたがたは、二階のご自分の部屋にいらっしゃいますけれど」

 食事/essen→essenz/本質。
 いらっしゃる(とどまっている)/bleiben・・・戦死する。

☆フリーダ(平和)は確かにここにあると思う。ここには誰もいないの?と、Kはたずねた。
「誰もいません」ペーピ(身分証明書)は言った。ここはテーマであって本質的に何もありません。つまりその目的のためにあるのです。たいていは自分のテーマである死です。