続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『四月のある晴れた日に100パーセントの女の子に出会うことについて』

2014-10-16 06:06:29 | 村上春樹
 四月のある晴れた朝、原宿の裏通りで僕は100パーセントの女の子とすれ違う。

 この書き出しで始まる短編は、きわめて空想的である。にもかかわらず、誰もが抱いたことがあるような感覚であり、男と女の潜在的な希求を揺れ動かすような空気感がある。

 ある哲学者は「地味な、あるいは汚いとされるような色であっても、星の数ほどある色のなかには隣り合った時にその色を光り輝かせる異なる色が必ず在る」と言っている。
 即ち100パーセントの出会いである。

《100パーセントの女の子》彼女の姿を目にした瞬間から胸が地鳴りのように震えた僕。美人でもなく素敵な服を着ているわけでもないけれど、彼女は100パーセントの女の子なのだと僕は確信する。にもかかわらず、どんな女の子だったか、すれ違った彼女を思いだせない。しかし白いセーターを着て、まだ切手の貼られていない白い封筒を右手に持っていた・・・その手紙の中には彼女の秘密が・・・という空想を抱く僕。


 僕の妄想が小箱の中の小箱のようなストーリーをつむぐ。
 あの衝撃的な瞬間、出会いの胸の高鳴りは本物だったのだという強い確信。しかし、小箱に収めたような小さなストーリーを彼女に伝える術もなく西東に別れ人混みの中に永遠に消えていった彼女は、僕にとって永遠の100パーセントの女の子として心に刻まれてしまった。

 初めて会った見ず知らずの女の子、(女の子ですらなかったかもしれない、彼女は三十に近く、僕は三十二才だった)彼女を見た瞬間に感じた僕の中の物語を、彼女に話しかけてみるべきだったのだ、そう切り出してみるべきだったのだという心残り。

 風のように過ぎる衝撃、幻想に過ぎなかったのだろうか・・・確かに胸が震えるほどに100パーセントを感じた女の子だった。
 けれど、75パーセントの恋愛や、85パーセントの恋愛は経験したからこそで、永遠の100パーセントへの未練はやはり永遠に山の彼方なのかもしれない。

 村上春樹の作品には、瞬間的な風の香りをも普遍にしてしまうようなやさしい説得力がある。

『城』1767。

2014-10-16 05:49:48 | カフカ覚書
ひとりのほうはは、絶えずからだをささえていなくてもいいように、上衣をうしろの柵につき刺していた。
「まあ、かわいそうに!かわいそうに!」と、フリーダは言った。


☆先祖はたえず恒久的な形に留めなくてはならないというのではない。隠れた先祖の好意的な味方も思うようにならなかった。「かわいそうに!かわいそうに!」とフリーダ(平和)は言った。