続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)山葵沢。

2021-01-20 07:07:03 | 飯島晴子

   山葵沢真昼の冷えの白拳

 山葵沢の緑、白拳の白、そして清流の清涼。至福ある景観、写生句である。

 山葵沢はサン・キ・タクと読んで、三、記、度。
 真昼はシン・チュウと読んで、審、抽。
 冷えの白拳はレイ・ハク・キョと読んで、例、迫、挙。
☆三つの記がある。
 その度、審(正しいかどうかを明らかにして)抽(抜き出す)。
 例(決められた事柄)に迫る挙(企て)である。

 山葵沢はサン・キ・タクと読んで、散、企、択。
 真昼はシン・チュウと読んで、慎、注。
 冷えの白拳はレイ・ハク・キョと読んで、励、薄、拠。
☆散(バラバラにする)企てがある。
 択(良し悪しを見てより出し)慎(過ちの無いように気を配り)注(書き記す)。
 励(力を尽くして務め)薄(迫る、近づくこと)が拠(よりどころ)である。


R.M『宝石』③

2021-01-20 06:36:36 | 美術ノート

 男の頭部と鳥の頭部が木箱の上に乗っている、奇術まがいの絵である。蓋は開くのか、開いた場合の予測は…どちらの頭部も物体として転倒するに違いない。つまり、蓋を開けた途端、男の頭部も鳥の頭部も《生と見えるもの》から《疑似物体》へと転化してしまう。生の欺瞞である。

 眼を見開いていることで《生》を確信する脳の作用は経験値の総合作用であり、情報の集積の誤作動である。二次元における絵画の特性(時空)だからこそ許される錯覚である。
 かつて床に置かれた三島由紀夫の頭部を朝日グラフ誌で見たことがあるが、これは明らかに《死》以外の何物でもなかった。

 にもかかわらず、人為的な絵(二次空間)では、そういうこともあるかの錯覚を平然と受け入れてしまう。この絵を見て「噓ばっかり」と笑うの子供だけかも知れない。少し知恵のついた輩は肯定しつつ探り、大いなる肯定で共感すらしてしまうという具合である。
 この微妙な知恵の総決算は磨かれた宝石である。価値があると思えば価値があり、無いと思えばただの石であるという人類の眼差しである。


 写真は『マグリット』展・図録より


『城』3575。

2021-01-20 06:27:51 | カフカ覚書

そこにうまく隠しておけば、忘れていなくてはならない時代を不必要に思いださなくてもすみますものね。


☆桎梏は大群を引っぱり、死体を小舟で引っぱっていくでしょう。隠れていれば思いださねばならない注意など不必要な時間は要りません。