続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)桐咲いて。

2021-01-25 06:55:34 | 飯島晴子

   桐咲いて輓馬の胴に詰るもの

 桐咲いて、初夏である。しかしここでは《切り裂いて=死》を暗示している。
 輓馬は家族の一員であり、働いてくれた輓馬の死に〈労い〉と〈感謝〉〈愛情と惜別の念〉を、その霊体に詰めるというのである。決して切り裂くものでもない。(北海道の画家、神田日勝の作品をイメージしたのかもしれない)

 桐咲いてはトウ・ショウと読んで、盗、章。
 輓馬はハン・バと読んで、判、罵。
 胴に詰るもの(胴詰物)はドウ・キツ・ブツと読んで、憧、詰、打。
☆盗んだ章を判(区別する)。罵(ののしり)憧(たたき)詰(責め)打(たたく)。 

 桐咲いてはトウ・ショウと読んで、套、章。
 輓馬はバン・バと読んで、番、場。
 胴に詰めるもの(胴詰物)はドウ・キツ・ブツと読んで、動、吃、物。
☆套(被った)章(文章)は、番(組み合わせる)と、場(場所・空間)が動き、吃(感じる)物(事柄)がある。


R.M『説明』

2021-01-25 06:31:28 | 美術ノート

   『説明』

 なぜそうであるかを解き明かすこと。
 ガラス瓶と人参、そしてガラス瓶と人参の合体。無機物と有機物が、接合ではなく徐々に融合していくなど絶対に有り得ないことである。ガラス瓶は最終的に分子として残るが、人参は腐食(酸化)し、分解され消えてなくなる。
 
《絶対に無い、起こり得ないこと》の説明は物理的現象では説明不可能であるが、絵空事の二次空間に描くことは可能である。
 現実には起こり得ないことも、画の世界では可能であるという説明である。

 石のブロックの上(叡智)にあるガラス瓶と人参の背景は緑灰色のベタであり、時代を問わず永遠に等しい。理論的に証明できない不可の状態も、二次元という平面上では可能だということの説明である。


 写真は『マグリット』展・図録


『城』3578。

2021-01-25 06:19:15 | カフカ覚書

 ペーピは、すでに話を終わっていた。ほっと息をつきながら眼と頬から二、三滴の涙をぬぐうと、しきりにうなずきながらKをじっと見つめた。それは、まるでこう言いたげであった。―所詮、わたしの不幸なんか、ちっともたいしたことじゃないのです。わたしは、それを耐えていくつもりです。


☆ペーピは話を終えていた。深く息をつきながら眼や頬にこぼれた涙をぬぐった。目を伏せたとき、彼女は話そうとし、十分に原因を把握し、この不幸を打ち消した。