続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)躑躅山。

2021-01-29 07:31:04 | 飯島晴子

   躑躅山眺むるうちに父衰へ

 足踏みし、ためらいながら、行ったり来たりしているうちに、・・・とうとう父は無念にも衰弱を余儀なくされてしまった。

 躑躅山はテキ・ドク・サンと読んで、擢、読、算。
 眺むすうちに(眺内)はチョウ・ナイと読んで、調、内。
 父衰へはフ・スイと読んで、普、推。
☆擢(多くの物から抜き出して)読み、算(見当をつけ)調べると、内(秘密)がある。
 普く推しはかることである。

 躑躅山テイ・ドク・サンと読んで、的、独、算。
 眺むるうちに(眺内)はチョウ・ダイと読んで、帳、代。
 父衰へはフ・スイと読んで、二、遂。
☆的(ねらい)は独(ひとりよがり)の散(自由気ままな)帳(ノート)にある。
 代(入れ替わるもの)二つを遂(やりとげる)。


『飯島晴子』(私的解釈)古びゆく。

2021-01-29 07:18:07 | 飯島晴子

   古びゆく紐の音する柿の花

 昔のことだけど…紐(ヒモ/男)が隠れているような気配がする姉(年上の女性の敬称)の家だった。

 古びゆく(古行)はコ・アンと読んで、怙、案。
 紐の音はチュウ・インと読んで、注、隠。
 柿の花はシ・カと読んで、詞、化。
☆怙(頼りにする)案(下書き)を注(書き記す)。
 隠した詞(言葉)は化(形、性質を変えて別のものになる)。

 古びゆく(古行)はコ・コウと読んで、顧、講。
 紐の音はジュウ・オンと読んで、重、音。
 柿の花はシ・カと読んで、至、果。
☆顧(かえりみる)講(話)は、重なる音で至(行き着く)果(結末)がある。


R.M『青春の泉』

2021-01-29 06:33:07 | 美術ノート

   『青春の泉』

 鷲だろうか、鳩だろうか。鳥の頭部が乗っている石碑にはROSEAU(葦)を意味する文字があり、右には一葉の形を模した樹(内実は根)、左には馬の鈴(伝説・口伝・風評・声)が岩石のゴロゴロした荒地の上に在る。空は茜色だが、地平線ではなく上空に行くにしたがって色濃くなっている。

 このちぐはぐな関連は、この時空がすでに現今信じている時空ではないということかも知れない。過去となり果てた超未来の景色を想定している。
 つまり今在る世界が、遠い未来の果てで石化し解読不明の遺跡になっているということである。

 鳥の頭部を鳩として見れば、オリーブの葉を持ってきた鳩、大家族の始まりであり、刻まれたROSEAUは〈人間は考える葦である〉といった知の始まりである。
 一葉の葉の樹形は不条理の要約であり、馬の鈴(口伝)は、歴史そのものかもしれない。

 空の茜がはるか上空であるのは、逆さを暗示し、今の地球そのものが過去の範疇に収められていることの暗示ではないか。すべてが転倒していても、人間の叡智だけは《永遠不滅》であると《石》が語っている、語らせている。
 すべてを永遠の彼方に葬り、墓標と化している。しかし、消滅し得ないものとしてこの三体をわが地球の『青春の泉』としたのではないか。

『青春の泉』、根源であり永続を暗示しつつも、決して永遠ではなく墓標となり果てる日の残存である。大いなる否定の後の強い肯定(意思)である。


 写真は『マグリット』展・図録より


『城』3582。

2021-01-29 06:20:31 | カフカ覚書

女中部屋ではたしかに美しいさ。しかし、ここじゃ、こっそりにせよ、あからさまにせよ、みなの笑いぐさになっているのだよ。ええっと、それから、なんの話だったっけ。そう、ぼくは、悪用され、だまされたと言うんだね。そうじゃないよ、ペーピ。ぼくは、きみとおなじく、利用されもしなければ、だまされもしなかった。


☆作り話の中ではたしかに美しい。でも、ここでは秘密、あるいは解放されているにせよ、みんなの笑いぐさである。話は、それでなければ、誤解され、裏切られたというわけだ。いや、違うよ。少しの誤解も裏切りもなかったんだよ。