『観念』
背広・ネクタイ・シャツの着衣、その上部の中空に青いリンゴが描かれている。あたかも頭部の代りとして描かれているとしか思えないリンゴの位置、意味。
ネクタイを締めたシャツの襟からは当然、人間の首や顔もしくは頭部と称されるものが現れる筈であるという思い込みがある。思い込みというより殆ど必至の事実でさえある。
繰り返し目にしてきた着衣を身に着けた人の映像は、脳の中に深く刻まれ動かし難い内的印象になっている。
その頭部が仮にリンゴや薔薇で描かれていても、脳裏に浮上する映像は《頭部の代替え》としての認識であって、中には人間がいるという《着衣=人間》という図式は崩れることはない。
客観的にも主観的にも等しい答えを導かざるを得ない感想であり、対象物(作品に描かれた絵)に対する認識である。
しかし、とマグリットは考える。《そうだろうか》という反問。
わたし達はあまりにもその実体を観念化しすぎているのではないか。一つに集約される認識が《答え》ではない。
《個人的な見解/内的解釈》は、もっと柔軟性のある角度からの見当が必要なのではないか。
観念的に対象を認識するとは集約ではなく、拡散の自由があってもよいのではないか。固定ではなく解放の自由である。
(バックの朱赤は情熱・意気込み・少しの怒り、そしてベタであるのは時空の不明であり、いつか、きっとの未来を志向している)
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょうっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでゐるもんか。
☆懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)を補(おぎないたすける)慈(情け/恵み)に嘱(頼む)。
化(形、性質を変えて別のものになる)詞(ことば)が含まれていることは秘(人に見せないように隠している)談(はなし)也。
もちろん、あの人たちとわたしたちとでは、境遇がちがいます。あの人たちは、生活をもっと高いところへ引きあげていこうとするなんの理由ももっていません。でも、他人とくらべてみるまでもなく、あんたは万事が文句なしにうまくいっていることぐらいはわかるじゃありませんか。
☆明らかに、あの人たちとわたしたちでは境遇がちがいます。あの人たちは生活を高めるように努力する理由がありません。他の人と比較することなく、死が最も良い経過をたどることを理解すべきです。
老人だけの生活になると、活発に動き回ることもないので、室内はそれほど激しく乱れることはない。昨日に変わらない今日の室内・・・。
一見変わらないように見える、しかし、積もる埃は明らかに掃除機の透明筒の中に見えるし、老眼鏡をかけた途端、脳天を打たれたようなショックを覚えてしまう。
それほどに日々の汚れは確実に室内に付着している。
《埃や汚れで人は死なない》などの呑気な事を言っている場合でないかもしれない。
(掃除はね、比較的努力しているの)という小さな自負は眼鏡をかけた途端すぐさま吹き飛んでしまう、特にキッチンにおいては。
数年前から評判のセキス酸、買っただけで仕舞ってあったセキス酸、出して試したところスゴイ威力…もう夢中で洗い流す…よく落ちる、もうスベスベつるつるの配管やレンジ…早く使えばよかった!
生きている限りは、掃除も必須科目。老体に鞭打ち、がんばる所存。
作品全体が石化の体である。石化…化石…石になり果てるまでの悠久の時間。
室内の中央には(オルメイヤーの阿房官、険しい山々、一本の樹、岩だらけの荒れ地)などが描かれた絵が額におさまっている。
テーブルにはロウソクと高台のついた器に盛られたリンゴがある。
その手前、つまり前面には、本と山高帽を持った初老の紳士とライオンがそれぞれ逆の方向を向いて存在している。
この条件を指して『旅の想い出』と題している。
これらはすべて象徴(マグリットの言うところの模範例)である。
時代の象徴、社会を席巻した信仰、模範例に見る男の生活パターン(本≒英知、着衣/帽子≒地位)、そしてライオンは百獣の王の名の通り権力・・・。
では、誰の想い出なのだろうか。
《存在の歴史を客観的に見る眼差し、例えば地球》の遥か遠い未来における感想、想い出である。
マグリットは生きた時代を否定しない。しかし、悠久の時間をもって『想い出』として総括することで時代の賢愚を肯定している、そう思う。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「こっちはすぐ喰べられます。どうです。少しおあがりなさい。」鳥捕りは、黄いろな雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできてゐるように、すっときれいにはなれました。
☆拭う傷(悲しみ)を調べ、補(補い助ける)講(はなし)を含んでいる。
惻(心を痛める)刑(罪を糺して罰する)である。
わたしたちを見すてることがあんたの目標なの。そうおもわざるをえないじゃないの。だって、そうとでも考えなかったら、あんたがこれまでになしとげてきたことになぜひどく不満をいだいているのか、わけがわからないんですもの。まわりを見てごらんなさい。わたしたちの隣人であんたほど偉くなった人がいるかしら。
☆それが終点(死)なの?そう思わざるをえないじゃないの。そういとでも考えなかったら、そんなに恐ろしいまでの不満を持っているのかが理解できないわ。周りをご覧なさい。誰かわたしたちの近隣であなたほど偉くなった人がいるかしら。
※バルナバスは北極星である。周りの星々の中で北極星ほどの要点になった人がいるかしら・・・。
『模範例』
単色(赤/オレンジ)のバックにごく一般的な紳士の様相が描かれている。
マグリットの作品には約束がある、その一つはバックの彩色で、海などが描かれる場合は過去および現在、単色の場合は微妙に差異のある未来だと思う。年代を表明できないような未来であるが、必ずや訪れるに違いないと想定された超未来である。しかし、確定ではなくあくまで空想の範疇を出ないものである。
その未来人から見た現在の一般男性である勤め人の様相。
わたし達は古代人たちの様相を空想を交えて描かれた図(サンプル)を教科書などで見ることがある、古代人すべてが同じだったとは思えないが、毛皮を身に着け槍を持った姿が一般的である。
(ああ、あんな風だったんだな)と納得するが、地域や慣習による差異は当然あったに違いないし、遡って獣のような姿の原人を教えられることもある。
要するにそういうことである。
超未来人たちが、すでに過去の人になった現代人を想定した《模範例》なのである。もちろん現代に生きているわたし達には数多の服装があり、一つに集約することは出来ない。
しかし、いつの日か、遠い未来に(模範例)とされる任意の様相が選抜され、並べて同じように理解される日が来るとも限らない。時代の流れ、解釈とはそのようなものではないか。
単に偶発的に選択される何かがまことしやかに《実例》となって、世間に踏襲されていく。それが観念という固定的な意識内容として認可されていくのである。
(わたし達はそれを十分疑ってもいいはずである)と、マグリットはつぶやく。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのやうにひかる雁が、ちゃうどさっきの鷺のやうに、くちばしを揃へて、すこし扁べったくなって、ならんでゐんました。
☆劫(おびやかす)傷(悲しみ)の元(根本)を露(あらわにし)、詮(あきらかにする) 章(文章)を編む。
そういうときは、こんなことでも幾度も言ってやれるのです。〈いったい、あんたは、どんなことをのぞんでいるの、バルナバス。どんな人生を、どんな目標を夢みているの。わあしたちを、このわたしをも見すてなくてはならないほどの高い望みをいだいてでもいるの。
☆そういう時は繰り返し言います。いったいどんな望みを持っているの、先祖の生涯を、先祖の終点(死)を想っているの。それはわたしから離れなければならないほどの広大な望みなのかしら。