続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

神奈川県立近代美術館・鎌倉。

2016-01-25 07:44:25 | 日常

 今月いっぱいで閉館となる鎌倉館。
 熱心な美術愛好家ではない無精者のわたし、足繁く通ったというのでもないけれど、お別れとなればやっぱり惜別の情がわく…寒いけれど、もうこれっきり入館することの叶わない鎌倉館へと向かった。

 ビ、ビックリの人並み…入場者の列はずっと向こうまで。最後列の辺りで誰かが「どのくらい待つんですか?」と係員に聞いている。
「そうですねぇ、40分くらいでしょうか」

 まずいな、こんなに寒いのに、一人で来て話し相手もいないのに・・・(帰ろうか)

「あのぅ、このカード(二期分の印を押してある)でただになるって…」と、その係員の方に提示すると、
「あっ、それなら並ばないで直接入っていいんです」という答え。(やった!)

 でも、せっかくの館長さんのトークも遠く響いて人の背中が見えるばかり・・・。


 それでも、最後の見納めができて、納得。
(鎌倉とも縁が遠くなると思うと、ちょっとさびしいな・・・)


若林奮『Ⅱ-3-1 近い緑』

2016-01-25 07:03:14 | 美術ノート

 『近い緑』  The Green Short Distance AwayⅡ・・・どういうことだろう、近い緑とは。

 鉄で製作された作品(オブジェ)である。室内(ホール)の隅に設置されたものだと思うけれど、月日の経過とともに当然劣化し錆びてていく。
 いずれ、いつの日か、錆びは深刻にもその形態を崩していくに違いない。繕うべくもなく錆びの結晶(粉末)と成り果てる宿命を想定できる作品であり、そのように意図された作品である。

 緑色でもないものを称して緑と印象付ける。鑑賞者は(緑と言うんだから緑を想定している物、つまり、これは樹木の抽象化なんだろう)と推し量る。
 緑=生命、あるいは大きく地球生命と捉えてもいいかもしれない。

 生命尽き果てるまでの時空を孕んだオブジェである。遥か遠い未来・・・しかしそれは近い未来かもしれない。《生と死の距離》は測りがたいが、真であることを証明する定理をこの作品の中に潜ませている。


 この作品は《存在の原理》であり、終末の時空を抱えた《祈りのシンボル》である。

 

(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』207。

2016-01-25 06:48:46 | 宮沢賢治

鷺の方がずっと柄がいいし、第一手数がありませんからな。そら。」鳥捕りは、また別の方の包みを解きました。


☆願いの法(仏の教え)を蔽(見えないようにする)。
  題(てーま)の逸(かくれた)趣(ねらい)が枢(かなめ)である。
  懲(過ちを繰り返さないようにこらしめるように)補(補い助ける)。
  蔑(あなどる)法(やり方)を封じ、法(道義/仏の道)を開く。


『城』2212。

2016-01-25 06:30:51 | カフカ覚書

こういう走り使いのような仕事のことだけなら、あの子は、わたしの言うとおりになるんです。つまりね、わたしは、彼が話してくれたことの最初の印象さえ消してしまったら、また落ち着きをとりもどせるのですが、あの子は、たぶんわたしよりも事情をよく知っているせいでしょうか。それができないのです。


☆このようなうわべだけのことなら、、彼はわたしに依存しているんです。つまり、わたしは彼の話の押さえつけられた先祖の苦境さえ消してしまったら、再び理解できるのですが、彼は真実を知っているのでそれができないのです。


若林奮『Ⅲ-3-11 飛葉と振動』

2016-01-24 06:53:05 | 美術ノート

 一人の人に対峙する林立の存在物。人は身体を巻かれ運動機能を拘束されている、感覚器官のみの存在と換言出来るかもしれない。
 林立する幾多の棒状のものは《自然》の抽象化と捉えられるだろうか。枝葉を落とした幹は樹の幻影のようである。

 つまり、存在の核心との対峙である。
 向かい合う、対自然の感覚。飛葉は見えない。すでに消えてしまったのだろうか。確かにこの樹に生命の証として伸びていたはずの葉の存在。
 樹木は一つの社会であり、数多の葉は人にも喩えられる循環の要である。その飛葉…役目を終えて地上あるいは地下に眠る宿命に甘んじる自然の理、すでに枯れ落ちてしまった葉は、不可逆の時空を辿る人の宿命に等しい。

 『飛葉と振動』…この作品の寂寞にはどこか震撼とさせられるものがある。
 これは、誤解を恐れずに言うならば、『葬送の胸の疼き/振動』である。飛葉という死へ滑り込んでいく葉への哀悼。

 厳かな葬送の儀式、人も葉も同じ定めを生きている、そして必ずや迎える死という最後の日。
 若林糞は姿勢を正し直立して、自然(樹木)に向き合い敬意を払っている。等しい関係のうちに短い周期で死期を迎える葉の存在を飛葉と呼び、その終末を悼んでいる。

 『飛葉と振動』は、美しくも哀しい葬送の儀である。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)


『城』2211。

2016-01-24 06:20:05 | カフカ覚書

「手紙のことですか。しばらくしてから、もちろん、そのあいだに何日化、何週間かすぎてしまっていることもありますが、わたしがうるさいほどせめたてると、バルナバスは、やっぱり手紙をとりあげて、届けに出かけます。


☆「手紙(書き物)のことですか」と、オルガ(機関/仲介者)は言い、先祖の小舟の場合、バルナバス(生死の転換点)は大変な混雑の時でも、何日か何週間かのあいだ閉じてしまうのです。


季節の花巡りの会。

2016-01-23 07:21:48 | 歩こう会

 運動不足ゆえの身体の劣化を少しでも改善したい。その一心で「歩こう会」に参加している。
 このたび新規に入会させていただいた『季節の花巡りの会』、昨日は京急三崎口駅に集合し、城ケ島へ。
 雲ひとつない快晴、岩場の地質など…火炎状構造・スランプ堆積物(スランプ褶曲)・カレントリップル(漣根)・縞模様(斜交層理)などを見学。
「箱根の噴火で飛んできた灰が降り積もったものです。向こうに見えるのは関東大震災で隆起したあとで、1.5mも地盤が持ち上がったのです。地層は動いているんですね」と、北野先生。

 水仙ロードをひた歩き、展望題で波静かな大海原を見渡した。
 大島を見て、相模湾の向こうや千葉県の山々などをグルリ展望。昼食の後は白秋碑を訪ね、水産技術センターの鯛を覗いたりして、城ケ島大橋を徒歩で渡った。椿の御所(大椿寺)などを見学し、バス停へ・・・。


 大いに城ケ島を楽しんだ一日。会の皆様、北野先生ありがとうございました。

(写真は「馬の背門」)


マグリット『色彩の変化』

2016-01-23 06:49:09 | 美術ノート

 『色彩の変化』寝室だろうか、枕が一つ。この枕に関しては性的な意味合いはなく、単に《夢》を暗示しているのだと思う。
 五角形の変形フレームの中のブルー、そしてその中に描かれた白い曖昧模糊とした三体は何を意味しているのだろう。
 フレームの右画面は漆黒の闇である。
 この二画面を持つフレームは枕のある空間の壁に影を落としている。つまり、フレーム・壁・枕・床面は同じ空間内に位置している、しかしフレームは枕の上部に浮いている。これは、寝る人間の頭を圧迫しているということである。
 得体の知れない三つの白い気体は、在ると思えば有り、無いと思えば無になるような実態を把握できないものの象徴ではないか。例えば信仰のような精神的な規律の暗示だと思う。
 その右に見られる黒画面、これは《不安/存在の影である脅威》のように思われる。

 自分という存在の奥深く、自分の脳裏をかすめて止まないゆえ知れぬ不安の重圧。
 背景の黒白模様は、日本の唐草模様と同じように《どこまでも連鎖可能な広がりを持つパターン》であり、時空の永遠を現わしている。
 枕は室内にあるにもかかわらず、その白黒パターンの時空へはみ出しているかに見える。


 マグリットの心境である。現実に生きているわたくしは常に何かの脅威に圧され、底知れぬ永遠の時空へ引き込まれていく夢に襲われる・・・。
 この瞑想における色彩の変化、色彩は《心的現象の傾向、その性質・内実》である。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』205。

2016-01-23 06:26:56 | 宮沢賢治

「ね、さうでせう。」鳥捕りは風呂敷を重ねて、またくるくると包んで紐でくくりました。誰がいったいここで鷺なんぞ喰べるだらうとジョバンニは思ひながら訊きました。


☆調べることを保(持ち続けると)普く露(あらわれる)。
  懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)法(仏の教え/真理)の註(意味を書き記し)推しはかる。
  路(ものごとのすじみち)を触(物にふれて感じる)詞(ことば)が腎(かなめ)である。