その一つのあかりに黒い甲虫がとまってその影が大きく天井にうつってゐたのです。赤ひげの人は、なにかなつかしさうにわらひながら、ジョバンニやカンパネルラのやうすを見てゐました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かはるがはる窓の外から光りました。
☆逸(かくれていること)を告げる講(はなし)を注(書き記す)営(仕事をする)。
代(変っていく)転(物事が移りかわる)を整え、釈(意味を解き明かす)図りごとが現れる。
鬼(死者)の赦(罪や過ちを許す)総てを詮(明らかにする)双(二つ)の我意の講(はなし)である。
しかし、最後には、バルナバスだって、仕事がもらえる。これまでにも、ぼくに手紙を二通もってきてくれましたからね」
☆しかしながら、終にはバルナバス(生死の転換点)にだって、命令が下ります。強制的な手紙をわたし自身すでに必要としましたから。
『恋人たち』
恋人たちは頬を寄せあい、キスをする。愛の始まりは胸がときめく・・・お互い相手の全てを知っているわけではなく未確認である。
男女の頭部は白い布で覆われている、恋は盲目を象徴しているともいえるこの光景。見つめ合う眼差しも頬を寄せる触覚も働かない断絶、無謀な白布。
知らないゆえの魅惑、好奇心。
実体は後から知らされるかもしれないが、恋人という未知の時代には不可解な領域が大きい。
本能的な男女の結びつき、どんなに身体を近づけても相手の真意までは見抜けない。不確定な要素に満ちた危険な関係ともいえる。
被せられた白布はいずれ時の経過とともに薄皮を剥ぐように正体を露見させるに違いない。
しかし、見えないがための魅惑というもは、むしろ見えてしまう現実よりも想像力を掻き立て精神を高揚させる。男女はそれぞれの夢想で相手を抽象化した幻影を引き寄せるのである。
夢想と現実・・・。
この白布の中には、それぞれの人生の情報が隠ぺいされている。
《恋人たち、それは無謀な試みである》というマグリット一流の皮肉が垣間見える。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
汽車はもう、しづかにうごいてゐたのです。カンパネルラは、車室の天井を、あちこち見てゐました。
汽車はキ・シャと読んで、鬼、赦。
車室はシャ・シツと読んで、赦、悉。
天井はテン・ショウと読んで、転、章。
見てゐましたはゲンと読んで、現。
☆鬼(死者)の赦(罪や過ちを許す)。
赦(罪や過ちを許す)悉(すべて)は、転(ひっくりかえる)章(文章)に現れる。
だれもが毎日仕事をもらえるとはかぎらない。あんたがたがそのことで不平をこぼすのは、筋違いというものです。おそらく、だれだってそうなんでしょうから。
☆だれもがいつでも命令を受けるわけではありません。そのことで嘆くべきではありません。多分誰でもそうなのでしょう。
(※死はある日突然のように告げられる)
人の誕生は偶然だろうか…必然的な結果ともいえるけれど、やはり偶然の作用が大きく因していると思われる。
一つの現象としてわたしは存在してる。
雪の降る酷寒の夜に生まれたというわたしは、産声も発せず、ぐったりと死んだようにしてこの世に誕生したらしい。
お産婆さんが、赤子の足を掴んで持ち上げ逆さにしたら、か細く「オギャー」と一声泣いたので(ああ、生きていた!)と安堵したいう。
その後の生育も思わしくなく、病身の母親の傍らで眠るだけ、母乳の代りに黒田牧場の牛の乳で何とか命をつないだらしい。(長いこと話に聞いた黒田牧場を知らなかったのだけれど、数年前、田戸界隈の遺跡探訪の講座を受講した際、「ここが黒田牧場跡です」という駐車場を教えていただき感涙を止めるのがやっとだったことがある)
もちろん《ハイハイ》もしないか弱い子供、一歳を過ぎても動かず畳の上をいざっていたという。二歳近くなってようやく立ち上がったわたし。臥せっていた母の代りに四軒長屋の隣人であったAさんにも面倒を見てもらったらしい。(Aさん夫婦には子供がなかったけれど、その後わたしと同い年の女児を養女に迎えている)
Aさんは家を建て転居、その後の行方を知らなかったけれど、後年、わたしの結婚式に介添えをして下さる方がわたしに声をかけた、
「せつこさん、わたしですよ。Aです」
彼女は式場で働いて全く偶然わたしの介添人になったらしい。
この世は偶然に満ちている。息も絶え絶えこの世に生れ出た赤子のわたしが、思いがけず未だ生きていて、こうしてブログを書いているなんて!!
急ぐことも、焦ることもない。悪戯好きの偶然の女神はいつもどこかで微笑んでいるのだから。
『ガラスの鍵』
超自然、奇跡の光景である。もし、高山の稜線に巨岩石が鎮座する景色を目撃したなら、卒倒するような衝撃を覚えるに違いない。
落下を予期し、落下する衝撃を想像するからである。
「なぜ?」を問う。
この光景を受け入れるためには、《神秘≒神》を介在させる必要があるかもしれない。有り得ない現象をあり得ると認識するためには、蓄積されたデーター、つまり観念を打ち消さねばならない。
否定の上の肯定である。
物理的に非合理な現象も、精神的には許されている。この狭間に存在するものは見えない。見えないことによって在ると換言してもいいかもしれない。
この山の上に置かれた巨岩石には《力/エネルギー》が潜んでいるので、暴力的なまでの落下の想像は見る人を震撼とさせる。怖れに拮抗する懇願、人智を超越した祈りの領域が見る者を支配する。
この驚愕の光景は現実離れしている、故に現実ではない可能性が高い。この光景は想像の産物であれば、世界は遮断されている。この光景の扉を開けるのは見えない鍵である。
マグリットの至高の神秘(祈り)を開ける鍵は、シンデレラのガラスの靴のように、ぴったり合致するものは時に見えないガラスの鍵、唯一思考の精神的な鍵だけである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
ジョバンニは、なにか大へんさびしいやうなかなしいやうな気がして、だまって正面の時計を見てゐましたら、ずうっと前の方で硝子の笛のやうなものが鳴りました。
☆題(テーマ)の記は、傷(悲しみ)を免れる慈(いつくしみ)である。
啓(人の眼を開いて理解させる)を現わす全ての法(神仏の教え)は、照(あまねく光があたる=平等)の詞(ことば)であり、的(ねらい)を明らかにするものである。
「なるほど」と、Kは言った。「バルナバスは、命令をもらうまでに、長いあいだ待たされるんですね。それは、わからないことでもありませんよ。どうやらどうやら当地には掃いてすてるほど使用人がいるようですからね。
☆「なるほど」と、Kは言った。バルナバス(生死の転換点)は命令を受けるまで長く待たされます。ここ(来世)ではおびただしい数の被用者がいるようですからね。
『人間の条件』とは、何だろう。
「我思う、ゆえに我あり」(デカルト)の言葉通りだとすれば、《考えることによってわたくしの存在はある》ということであり、存在を認識することが《人間の条件》だとも考えられる。
認識以前の問題としてまず、懐疑の前提がある。
この作品における問題点は画布に描かれた風景が、実際の風景に合致するかという論点である。
一見して、窓外の景色と画布に描かれた景色はつながっているように見えるから、画布の景色は画布に隠れた窓外の景色に一致するという感想を抱く。
《そうに違いないという肯定》《違うかもしれないという否定》この狭間を証明するものはない。
肯定と否定に揺れる意識作用・・・これこそが『人間の条件』だとマグリットは言っている。
自分の眼差し(存在)は、確かなものだろうか、如何にも疑わざるを得ないように描かれたマグリットの作品の前で(自身の眼差し《存在》を問う)。
『人間の条件』という作品は、人間の条件を鑑賞者自身に問いかける作用を有している。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)