続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『残り元素 Ⅰ」

2016-01-13 06:26:49 | 美術ノート

 「残り元素」って何だろう。
 化学的に分解した最小の要素ではなく、ここは哲学的なことを言っているのかもしれない。ギリシャ哲学の万物の基本である四元素/地・水・空気・火(仏教では地・水・火・風)
 《この他に在る、他にもある元素》ということだろうか。

 作品から受ける印象は恐怖である。手や足首の欠けた疲弊した人間が、殺戮を暗示する強力な武器に脅迫されているような構成である。
 スイッチが入れば、即、死を免れないような切迫した状態は、何を意味しているのだろう。

 万物の基本・・・地・水・空気・火、そして目に見えない恐怖(精神の振幅)だろうか。精神は物質ではないが、火もまた現象ではないだろうか。
 
 作品における人物は、膝を曲げている。つまりは足の機能を果たせないということである。手も足も出ない…背後の強迫に対し、攻撃の術を持たず、逃げることも適わない。そして武器もまた人智の為せる術である。
 宿命・無、あるいは祈り、抗う術のない死を覚悟した状態・・・単なる有機物質に還っていく予兆を孕んだ図である。


 『残り元素』とは、《人間の業》かもしれない。


(写真は神奈川県立近代美術館・葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』196。

2016-01-13 06:16:48 | 宮沢賢治

「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまへる商売でね。」
「何鳥ですか。」
「鶴や雁です。さぎも白鳥もです。」
「鶴はたくさんゐますか。」
「居ますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか。」
「いゝえ。」


☆考えを調(ととのえる)章(文章)は、倍の果(結末)がある。
  眺(遠くを見わたし)覚(感知し)願いを吐く。
  帖(ノート)に書く拠(よりどころ)は冥(死後の世界)を問うことである。


『城』2201。

2016-01-13 06:01:38 | カフカ覚書

「だから、この勤めも、一見らくなように見えますが、とても疲れるんです。と言いますのは、バルナバスは、たえず注意をくばっていなくてはならないからですわ。とにかく、ある日のある時刻に書記が、バルナバスのことを思いだしてくれて、彼に合図をします。


☆だから、この晩餐も死体のように見えますが、預言者も疲れるんです。バルナバス(生死の転換点)は絶えず注意しなくてはならないからです。書記がバルナバス(生死の転換点)のことを思い出してくれて、彼に身振りで知らせてくれるのです。


マグリット『星座』

2016-01-12 07:33:02 | 美術ノート

 『星座』と題された作品に星座らしきものは描かれていない。そもそも星座とは、人の眼差しが空を見上げて創った空想の産物である。

 神話によって描かれた空の物語を地上の人が追想する天と地との融合は、大いなる宇宙空間を所有するという人智である。
 自然を名づけることで、心理的支配下に置くという優位。

 あるがままの自然(星の配置)を、夢想することで異世界に結びつける。人の思惑が想像した世界は、人の生活する社会にまで影響を与える。心を動かされた人たちはその教えに生きる糧を見いだしていく。
 『星座』における人智の空想は、地上の人の渾沌を救う。
 
 天空に張られた天幕、オリーブの葉と鳩、自然の樹木を凌駕する落下(死)の葉の変容・・・人の視界は低くそれらは手の届かない至高に位置している。雲に被われた空には本当の空が見えない。


 『星座』、人の空想が天空に異世界を創っている。
 地上の人も、ある種の空想により、圧を受けてはいないだろうか。
 この作品を見る時にはどうしても、なぜか・・・視線を低くし、権威の象徴のような巨大な天幕を見上げてしまうのである。

 『星座』に酷似した地上界を皮肉な眼差しを見ているマグリットが見える。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』195。

2016-01-12 06:40:00 | 宮沢賢治

「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」
「あなたはどこへ行くんです。」カンパネルラが、いきなり、喧嘩のやうにたづねましたので、ジョバンニは思はずわらひました。すると、向ふの席に居た、尖った帽子をかぶり、大きな鍵を腰に下げた人も、ちらっとこっちを見てわらひましたので、カンパネルラも、つい顔を赤くして笑ひだしてしまひました。ところがその人は別に怒ったでもなく、頬をぴくぴくしながら返事しました。


☆鬼(死者)の赦(罪や過ちを許す)講(はなし)である。
  考えを兼ね(重複させ)加える講(はなし)の析(わける)拠(拠り所)を宣(述べる)。
  謀(はかりごと)の詞(ことば)は題(テーマ)を兼ねている。
  要(かなめ)の化(形、性質を変えて別のものになる)の図りごとを現わし、信仰の釈(意味を解き明かす)。
  章(文章)を任(委ねられたこと)を瞥(ちらりと見て)努(力を尽くす)。
  教(神仏のおしえ)を遍(もれなくいきわたらせる)辞(ことば)がある。


『城』2200。

2016-01-12 06:24:57 | カフカ覚書

だけど、つぎには、手紙がどういうものか、たとえば、あなたあてのてがみがどういうものか、それをお話ししましょう。バルナバスは、こうした手紙を直接くらむから受けとるのでゃなく、書記からもらうのです。いつでもいいんですが、ある任意の日の任意の時刻にー


☆詞か新柄、その手紙をどう止めたらいいのか、たとえば、あなたあての手紙がどういうものか、彼はこういう手紙(通告)を直接、クラム(氏族)から手に入れるのではなく、書いたものから判別するのです。任意の日の任意の時刻にー
《任意の日の任意の時刻・・・Xデイ、城≒終末/死の通告を受けるバルナバス(生死の転換点)》


ヘレン・シャルフベック(魂のまなざし)

2016-01-11 07:34:17 | 美術ノート

 『ヘレン・シャルフベック』展ー神奈川県立近代美術館/葉山

 写実の技法に長けた画家の作品は、彩色のトーンを外さずすことなく精緻な印象を放ち、到底その域にまで達しない不器用なわたしには眩しいほどだった。(『回復期』など)

 魅了するに十分な力量の画家は更なる展開を遂げ、その洞察力は恐れを抱かせるほどの迫真を秘めたものに変貌していくのを会場では一望に見ることが出来た。

 目を合わせがたいほどにこちらを見透かす眼差し、『サーカスの女』の赤い唇は見る者を惑わせる魔力があり、それは官能的というよりは一途な誇りを潜ませている。女らしい優しさ、そこはかとない色気と哀愁、それらを胸に秘めた毅然とした風貌は鑑賞者を一瞬たじろがせてしまうほどである。

 『赤いリンゴ』に際立つ赤の彩色。美しいというよりは、赤という魔物が生きているとさえ感じさせる有り様である。
 彩色、《色が色という役割から離れて活きている》
 そう見せる全体のトーンの妙・・・。

 内実をえぐり出す、選択された一本の線描(色面)は、写実の巧みさを凌駕した画家の眼差しであり、深層の投影である。


 「彼女は写実から平面的な描写の中に自身の確信を見いだしていきました」という水沢館長さんのお話の通り、平面的な描写の中に写実を越えた深さ、そして見る者を震撼とさせる線描に至ったのだと納得させられる展覧会でした。

 水沢館長さん、丁寧な解説有難うございました。


『銀河鉄道の夜」194。

2016-01-11 07:16:31 | 宮沢賢治

 赤ひげの人が、少しおづおづしながら、二人に訊きました。
「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか。」
「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪さうに答へました。


☆析(わける)図りごとの章(文章)は、普く腎(大切なところ)である。
  腎(かなめ)の法(神仏の教え)の講(はなし)は、照(あまねく光があたる=平等)を握(手に収める)祷(いのり)である。


『城』2199。

2016-01-11 07:07:53 | カフカ覚書

「わたしたちが泣きごとをいうのは、まちがっているかもしれません。わたしの場合は、とくにそうですわ。なんでも話に聞いて知っているだけですし、女ですから、バルナバスのようによく理解することもできません。それに、バルナバスにしたって、まだ隠していることがいろいろあるんですもの。


☆わたしたちが嘆くのは間違っているかもしれません、とくにそうです。死を聞いて知っているだけですし、少女ですからよく理解することもできません。それにバルナバス(生死の転換点)にしたって、まだ多くの妨げがあるのです。


若林奮《地表面の耐久性について》

2016-01-10 07:01:12 | 美術ノート

 《地表面の耐久性について》
 大地の平穏、ずっとこの地表面は変わらず、わたし達の生活を支えてくれる基盤であると信じて疑わない。〈そうであって欲しい〉と願わざるを得ない。
 〈そうでないかもしれない〉という一抹の不安・・・《地球は活動している》という事実は、歴史をさえ塗り替えてきた。ポンペイの遺跡、幻のような街が地下に眠る・・・時空の沈下は誰も予想が出来ない。

 世界(生活)を支える地表面は動いている、という不穏な物理的現象。
 〈地面が動くなんて!〉〈有り得ないでしょう〉

 揺れ・激震・崩壊はあり得る事実である。なぜなら原始地球は高温高圧、火山噴火を繰り返しながら生物の誕生を光合成により果たしたのであれば、その活動の連鎖が今に続いているのはむしろ当たり前の事実なのだから。

 動きを止めないプレートの上に地表面があるのであれば、人智をもって対抗出来うるあらゆる手段を思考錯誤しても、いかに頑強なボルトで固定しても・・・そのようなものでしかない。作品に見る地表面から半円上に連鎖し盛り上がっているものは、地下に潜むエネルギーの具象化ではないか。
 圧を加える人智はキューブの山積として置換されている。

《地表面の耐久性につて》、作品はいかにも頑強に造られ、それは地下深くまで掘り込んであるという。それをもってしても叶わない地表面の宿命。

 作家は地下を思い、地表面の耐久性について深く思いを馳せたに違いない。地表面は永遠不滅ではなく、地表面は危うさを常に抱えている。
 慟哭にも似た哀愁が作品の影に隠れている、そんな気がしてならない。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)