『桟敷席』
桟敷席の中には椅子に腰かけこちらを向いた双頭の女性と劇場を見る少女の後ろ姿がある。床は波打つような板状であり、部屋全体は茶系で明るさはないが天板だけは明るめのグレーの彩色、そして女性と少女は明度の高い彩色になっている。
劇場内の壁が白く明るく見える。しかし観劇の場合、舞台だけが明るくライトアップされるのであって、向かい側の壁(観客席)が明るいのは違和感がある。
桟敷席、いったい何を見ているのだろう。舞台では何か演奏してるようにも見えるが、少女が見下ろしているのは隔絶された世界のような気がする。
双頭の女性・・・これは一人の女の分解であり、少女はこの女性の分身ではないか。長い髪の少女に対し座る女性にはそれがないことからも、魂の分解の具象化を疑うことができる。
床が波打つように描かれているのは不安定を暗示し、浮遊の霊魂が現世という舞台を覗き見ている設定なのではないかと推測する。
双頭の女性には辺りを窺うような緊張感がある。(漫画的手法の双頭、〈右見て左見て〉のような気もする)
ここ(天上)では現世(下界)を見下ろすことはタブーなのではないか。少女の暴挙を、母なる魂が守り、辺りを警戒している。そんな寂寞と不安と期待感が交錯する空間である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「からすでない。みんなかささぎだ。」カンパネルラがまた何気なく叱るやうに叫びましたので、ジョバンニはまた思はず笑ひ、女の子はきまり悪そうにしました。
☆化(形、性質を変えて別のものになる)の記である。
悉(ことごとく)経(仏の教え)が隠れている。
照(甘えく光が当たる=平等)を叙べる詞(ことば)は、和(争いを納める)。
わたしたちは、あとでこの手紙を解釈して、ソルティーニはたぶんすぐにお城へ帰るつもりでいたのだけれど、アマーリアのことがあったので村に残ることにした、ところが、夜になってもアマーリアのことを忘れ去ることができなかったので、翌朝腹だちまぎれにこの手紙を書いたのだろうと、と考えることにしました。
☆わたしたちは後に正しく解釈してソルティーニ(太陽)はたぶん終末(死界)へいくつもりだったけれど、アマーリア(月)のことがあったのでそこに留まることにした。ところが夜になってもアマーリア(月)のことを忘れることができなかったので、翌朝には怒りに満ちたこの書き物を書いたのだと考えました。
先日、近所のAさん(85歳・元教師)が、繁華街のバス停の椅子に腰かけ、並みいる人の合間から手を振リ、こちらを見ていた。
日赤の奉仕で伺ったときには、歩けないからと、窓から顔を出した方。膝の手術を今春予定していたけれど、持病のため断念せざるを得なくなり今日に至っている由。
「あなたが見えたから」と嬉しそうに話しかける姿は、きちんと身づくろい・化粧を施し元気そのもの。
でも、病院で「あなたお一人で、付き添いもなく来られたのですか?」と医師に驚かれたような不具合状態。
びっくりして「どこへ行くんですか」と尋ねると、
「三丁目のバス停から衣笠十字路へ出て横須賀駅行きに乗り換え、ここから追浜駅まで行きます。そこからはタクシーで」と笑った。
「いい絵があるって聞いたから」というけれど、町はずれの小さな画廊である。
絶句していると、
「若冲も見たいのよ、でも、妹が・・・」「それにね、近所の高齢の何々さんはって私と比較するのよ、悔しいわ」とこぼした。
バスに乗り込むのも、人の手を借りなければ乗れず、中の人が手を引っ張れば、後方の人がお尻を持ち上げるという具合。
無事椅子に腰かけた彼女、「じゃぁね」と手を振ってくれた。
「・・・」
わたしも高齢者の仲間入りをして久しい。彼女の今日はわたしの明日である。
つくづく、もう少し。
元気出して歩きましょう。祈るような気持ちでAさんに手を振り返した。
『喜劇の精神』
この作品を見ていると、おかしくも哀しく切ない気持ちになる。
人の形を模した薄い紙切れ状態のものが立っている。折って刻まれた穴は無数にあり、透けて見えるほどの欠落である。
わたくし(自身)を失いかけているが、辛うじて立ち、坂の勾配に逆行している。
すでに自分を消している。見栄・誇り・プライドを消失させ、傷だらけの全身を曝す覚悟。
(さあ、ご覧あれ)喜劇の精神は転げ落ちるような坂を満身の力で、くい留めている。
バックはくすんではいるが清浄な青である。
喜怒哀楽を通して喜劇の本髄を示すには、自分を殺さねばならない。裸の魂が、聴衆の感動を呼ぶ。
喜劇・・・人の見栄・誇り・プライドを大いに満足させるところに喜劇の精神の原点がある。ゆえに、それらを払拭し、もの悲しくも死人のような魂をもって演じるのである。
笑いを惹き起こすこと、それは現状との差異にある。だから、現状の生身の人であることを捨てることが『喜劇の精神』なのではないか。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「まあ、あの烏。」カンパネルラのとなりのかほると呼ばれた女の子が叫びました。
烏はウと読んで、有。
呼ばれたはコと読んで、虚。
女はジョと読んで、叙。
子はシと読んで、死。
叫びましたはキョウと読んで、経。
☆有(存在)の虚(むなしさ)を叙べる死の経(仏のおしえ)がある。
それに、これは、愛の手紙というようなものではありませんでした。女性をうれしがらせるような言葉は、どこにも書いてないのです。むしろソルティーニは、アマーリアを見てこころをとらえられ、仕事ができなくなってしまったので、あきらかにそのことを腹にすえかねたにちがいありません。
☆まったく恋文などというものではなく、そこには嬉しがらせるようなことは一つも書いてありませんでした。ソルティーニ(来世の太陽)はアマーリア(マリア/月)を見て感動し、たくさんの死には明らかに腹を立てたのです。
地上には巨大な鼻が鎮座しており、背後には一葉が樹を模して立っている。海と曇天、手前の石造りの開口部は人知(文明)を暗示している。
曇天からの雲行きが、晴天になるのか雨風嵐を呼ぶかは心理的には想定不可であり、証明の範疇にはない。
第一、まるで個体化した存在物のような鼻などというものは、自然界にはあり得ない現象である。
占いは人の運勢やその吉凶を予想するものであり、知りたいことのベストワンかもしれない。起こり得るかもしれない確率を経験値から推論していく、手掛かりは宇宙や自然の動向などによることが多く、データーの集積は必須だと聞く。
この作品に見る鼻は臭覚を暗示するが、占いとの関連は希薄である。その背後の一葉も虚偽の想像であれば、『占い』と称したこの景は『占い』を否定するものなのだろうか。
(鼻で笑う)という表現があるが、巨大化された鼻は威風堂々の存在感を示している。
しかし、このあり得ない景を提示して『占い』と表題する。
《あり得ない景=占い》であると。
ひょっとしたら、ここで言いたいのは、その占いめいた言動が世間(社会)を動かしているのではないかという疑惑と恐れではないか。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
青年はぞくっとしてからだをふるふやうにしました。
だまってその譜を聞いてゐると、そこらにいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蠟のやうな露が太陽の面を擦めて行くやうに思われました。
☆照(あまねく光が当たる=平等)の念(思い)普く問い考え、録(文字に書き記す)冥(死後の世界)也。
言(言葉)による私記で仏(死人・霊)を吐く(言う)。
朧(ぼんやりとかすんで)露(あらわれる)他意がある。
庸(一定不変)の綿(細く長く続く)冊(書付)の講(はなし)を試みている。
アマーリアを知らない人がこの手紙だけを読んだら、こんな手紙を男からもらうような娘は、よしんば男に一指もふれられていないとしても、ふしだらな娘だと考えてしまうにちがいないでしょう。
☆アマーリア(マリア/伝説)を知らなくて、ただこの書き物を読んだならば、冒険的な記述で名誉を奪うような娘ではないので、そういう運命になったことを、全く言及すべきではありません。