『火の時代』
インディアン(ネイティブ・アメリカン)の横向きの姿は全体が赤く、右手からは炎のような不定形な立ち上りがあり、左手のひらは白い。両の手とも背景の土(あるいは岩)が赤い縁取りで部分的に見える。
暗赤の雲、土色の空、湖面(あるいは海面)そして岩礁(陸地)の景である。
これらの条件をもって『火の時代』と称している。
立ち上る赤いものは確かに火のように見えるが、単に赤い板状にも見える。つまり全体が動いていない、停止状態に見えるのである。
右手に持っている赤いものから垣間見える白いものは球体のようであり、それは《真理》を暗示しているのではないか。火に包まれた真理が変形し、炎と共に空中に消えていく。あるいは真理は常に人と共にあるということだろうか。
火と水、そして空気と土が画面を支配している。インディアンは古代の人の象徴としての暗示であれば、火を使用し始めた原初を指している。〈それぞれの地域でそれぞれの事象(火山活動・落雷・太陽熱etc)により発生・発見〉
遡ること200万年ほど前から…生活の基本である『火』の使用は生命の生死を左右する根源的な要素である。そしてそれは現代においても変わることのない普遍性を持っている。
『火の時代』それは『人類の時代』に等しい。
火の持つ神秘、それは人類の要であり、不可欠な祈りの象徴でもある。
わたしたちは、原初の昔から現今、そして未来に至るまでの長きを火に寄り添い生き続けるに違いない。
『火の時代』それは宇宙滅亡のずっと遥か彼方からの眺望である。(その眺望からすれば、インディアンも現代人も差異がなくイメージ化された一枚に集約されてしまう)
時代の凝縮、マグリットの眼差しはずっと、ずっと向こうに視点をおき、こちらを夢想している。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
その林のまん中に高い高い三角標が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじって何とも云へずきれいな音いろが、とけるやうに浸みるやうに風につれて流れて来るのでした。
☆倫(人の行うべき道)の誅(罪を責め咎める)考えの講(はなし)は散(バラバラ)に隔てて表し留め、真の誅(罪を責め咎める)果(結末)を運(めぐらせrこと)を、隠して申べている。
普く縷(連なる糸)の記である。
文面は、おそろしく下品な表現がしてあって、わたしは、それまでにこんな言葉を耳にしたこともなく、前後関係からこういうことなのだろうと半分ぐらい推量するのが、関の山でした。
☆書き物は涙にくれるような表現であり、決して聞いたこともないものでした。ですから、つながりを単に半分ほど推量しただけでした。
『ハゲタカの公園』
暗赤の地。黒い山並み、黄(黒ずんだ黄色)、箱の中の一本の樹、下から突き出た割れ目のあるパイプ、箱の背後にはストッパーのような枠が続いている。
生気というものが欠如した不気味なエリアである。
不毛地帯の寂寞と恐怖。攻撃はないが、抑圧や拘束や監視を感じるそれぞれの設置。
廃墟、闘いの跡の空漠が漂い、未来の光芒が見えないのである。
奇跡的ともいえる箱の中の一本の樹は、しかし成長を抑止されている。この中には時間を暗示するものがあるが、継続は断ち切られており、亀裂の入ったパイプは上下の情報が相通じないことを暗示している。
抑圧はゆるく計算された死である。
即ち人知の圧力であり、背後には不明な枠が地底より伸びている。箱や枠やパイプは観念的に大きさを測りがちだけれど、背後の山麓との位置関係を考えると巨大である。見下ろす視点にありながら、山頂がそれらより低いからである。
『ハゲタカの公園』は、楽しく集うべき公園の荒れ地となった様であり、恐怖政治の果ての未来予想図をも思わせる。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
二人はりんごを大切にポケットにしまひました。
川下の向ふ岸に青く茂った大きな早いが見え、その枝には熟してまっ赤に光る円い実がいっぱい、
☆普く図りごとの題(テーマ)を接(つないでいる)。
千(たくさん)の化(形、性質を変えて別のものになる)講(はなし)を含んでいる。
章(文章)の綿(細く長い)体(ありさま)は、倫(人の行うべき未知/筋道)が現れる。
詞(ことば)を熟(十分に)析(分けると)、講(はなし)の縁(つながり)に昵(近づく)。
わたしは、その内容をいまそっくり申しあげることはできませんわ。要するに、縉紳館にいる自分のところへ来るようにという要求で、それも、すぐ来てもらいたい、自分は半時間後にはここを出ていかなくてはならないのだから、というのです。
☆わたしはその内容をいま再現することはできません。要するに大群の暈(死の入口)に来るように、アマーリア(マリア/月)はすぐ来なくてはならないという要求で先祖の不完全な時間でソルティーニ(来世の太陽)は移動しなければならないからです。
『夏』
なぜ夏なのか、確かに積雲は夏に多く見られる雲の形ではあるけれど、夏に限ったものではない。
集合住宅のビルの窓々は閉じられカーテンも引かれている、夏(猛暑)を感じさせる景が描かれていないにもかかわらず『夏』という命名。そして、象徴である旗が、青空に散在する雲(積雲)であることも奇妙である。
数多の窓には相応の人の存在があるはずであるが、閉じられた窓からはその気配を感じない。不在、あるいは沈黙だろうか。
旗に象徴される変幻の雲は自由にその様相を変える、予想の付かない雲の行方。
窓と窓が近いということは窮屈な個別空間を思わせる。
夏は開放的な季節であるにもかかわらず、閉鎖的な空気が漂っている。
旗は人々の想いの象徴であるとするならば、夏雲に見る自由を掲げたのではないか。
画一的、同質化された状況、社会的制約などの息苦しさからの解放を希求した旗印こそが、等しく象徴される夏の解放感だったのだと思う。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのやうな形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまうのでした。
☆説(はなし)を拡げると、魄の非を罰する景がある。
章(文章)の絡(つながり)は、換(入れ替えること)で、解かる。
講(はなし)の常は法(仏の教え)である。
「手紙にはどういうことが書いてあったのですか」
「ええ、それをまだ申しあげていませんでしたわね。手紙は、ソルティーニから来たもので、ざくろ石のネックレスをしていた娘さんにというあて名になっていました。
☆「書き物にはどういうことが書いてあったんですか」と、Kはたずねた。
「ええ、わたしはまだはあしていませんね」と、オルガは言った。「書き物はソルティーニから来たもので、不機嫌な恐ろしい縁の娘さんにというあて名になっていました。
先日、よく眠ると書いたけど、考えてみると単に疲れやすいだけである。すぐぐったりと意気消沈、ポテンと寝てしまう。健康というより身体が虚弱なせいで、大したこともしていないのに寝てばかりの体たらくな日常であるに過ぎない。
好奇心というより、すぐ飛びつく癖・・・書店でレース糸とビーズで作るアクセサリーの本を見て、その気になったわたし。
本はもちろん、ビーズとレース糸を購入。試作を繰り返しているけど難易度が高い。
無揃いである。(これでは・・・)
今朝起きたら眼が真っ赤。
ああ・・・劣化真っ最中の目を酷使するなんて!
がっかりなわたし。
挑戦するなんて無理?
(寝るほど楽があればこそ浮世のバカは起きて働く)って、祖母の口癖だったらしい。技師だった祖父が休日には忙しく布団干しやら掃除をしていたと聞いている。祖父は早くに他界したけど祖母は70歳過ぎまで健在。
煩わしいことは考えないで眠りこけることが一番かもしれない。