『3つの停止原基』
3つである必然性は不確定であるが、この提示そのものが《デュシャン自身》であるとするならば、3つは〈誕生〉〈生〉〈死〉という現象ではないか。それらはまったくの偶然・奇跡の往路であり、復路は決して無い不可逆の線条である.3つの板状の上にある円形の穴は3つに等しく開けられており、一つに括られる暗示だと思う。
この3つ(停止原基)の物の傍らに置かれた箱は、収納を意味していると思うが、長さはともかく不必要なほどの高さ(深さ)がある。3枚の仕切り版が設置されているが、手あるいは腕を下ろせない幅である。
収納というより入れたが最後、取り出し不能な箱であり、留め金にも不備がある。つまり完全に閉めることはできず、開閉は自由であるが、取り出し不可能な箱である。
〈誕生〉〈生〉〈死〉まで、ガラス板ゆえ見渡せる構造の箱・・・すなわち、人の一生を収納する《棺》の暗示、プランかもしれない。
『3つの停止原基』は、わたくし(デュシャン)であり、他の誰かの基準になる物ではありません。(原基に非ず)という真意であります。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
こどもは力もつきて、もう起きあがらうとはしませんでした。雪童子は笑ひながら、手をのばして、その赤い毛布を上からすつかりっけてやりました。
☆力(精神力/努力)の記、説(はなし)が導く詞(言葉)は照(あまねく光が当たる=平等)の趣(考え)である。
積(つみ重なる)亡(死)は、普く照(平等)である。
わたしたちは、あの朝の使者をいままでのところまだ見つけだしていません。彼は、彼を非常に高く買っているソルティーニにいまでも仕えているそうで、ソルティーニがさらに遠くの官房へ引っこんだとき、いっしょについていったということです。
☆わたしたちは虚構の小舟をまだ見つけ出していません。死の義務は常にあります。
彼を非常に高いと評価しているソルティーニが、さらに遠くの秘書局へ引っ込んだとき、ついていったということです。
学校から帰り、外遊びをしている小学低学年の女の子たちの声が室内にいてもよく聞こえる。
(あの子たちに紙芝居を試してみたいな)常々思いながら、どうしても勇気が出ない。でも昨夕、思い切って、手招き。
「おばさんの紙芝居みてくれる?」(かすれ声…)
(ええ、何だろう)という風に近づいてきてくれた。今なら二人しかいない、二人の前なら(きっとできるぞ)ドキドキ。
「からかさおばけとのっぺらぼう」という演目(?)を披露。
真剣に真っ直ぐわたしを見てくれている少女の眼。(上がっちゃうよ)
なんとか話し終えたら「こういうの初めて」と喜んでくれた。
「ありがとうございます」って女の子たち。
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
紙芝居デビューを果たしたことでした。
『3つの停止原基』
デュシャンがもっとも驚異に感じていたのは『誕生』ではないか。生まれ出で存在することの奇跡、わたしという存在。
世界の中のわたし、わたしの中の世界、その関係性への深い眼差しが作品提示の根拠である。
偶然描かれた線描を元にした定規のようなものが3本、箱から出され並べられている。この3本に関係性はないが、類似の発生プロセスは推しはかることが可能である。
いかにも年代物の巧みな木箱に設えたガラス版の仕切りは正確に分割されているようである。しかし、留め金は締まるかもしれないが開閉自由の安易さがあり、軽重が混然とした不具合が垣間見える。
混沌を孕んだ木箱に、3つの停止原基が収まる仕組みなのだろうか。木箱の底面に落ち着くしかない3つは、収納された場合、取り出す時の困難はどう解消するのだろう。ガラス板の間隔、1/4(22.7−3)÷4≒5㎝では手が入らない。
いかにもという風に並べられているが、よく見ると、いかにも不具合そのものである。
『3つの停止原基』は存在しているが、単一無二の物であり、原基とは停止せざるを得ない代物である。(そしてそれはわたし自身でもある)
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
もうそのころは、ぼんやり暗くなって、まだ三時にもならないに、日が暮れるやうに思はれたのです。
☆案(考え)に算(見当をつける)。
字の化(形、性質を変えて別のものになる)を募(求め)試みること。
父は、以前まだわたしといっしょに縉紳館へ来れたころは、酒場のどこかで居眠りをしていて、あくる朝わたしがもっていく報告を待っていました。報告することは、あまりありませんでした。
☆父(宿命)といっしょにハロー(死の入口)へ来たころは、酒場(こぐま座/北極星の至近を回っている所)のどこかにすべりこみ、臨時にわたしがもっていく情報を待っていましたが、それは少ししかありませんでした。
生きるとは闘いかもしれない。
戦意をもって勉強に打ち込んだことがないわたしだけれど、近頃は自身の体力と戦っている。
見渡すかぎり日々集積される埃は老眼のため見過ごされているが、心のうちでは焦りと義務感からストレスになってわたしを打ちのめす。
もっと手の込んだ家庭料理をと思っても、ワンプロセスの簡略総菜。
片付けも問題を残したまま・・・。
あらゆることが後手後手に回り、その見えない(見えてる?)猛威と戦っている。
若くはない、老いたのだと悟り、全てを捨ててしまう覚悟が必要かもしれない。
何と寂しいことを呟いているのだろう。この薄汚れた精神こそばっさり切り捨てなければ…そう思いつつ・・・身体の劣化に打ち負けている。
『3つの停止原基』
非常に丁寧に造られた年代物の木組みの箱である。にもかかわらず、金具が取り付けられている。現物を見ることが出来ないので想像の範囲であるが、蓋や仕切り版は後から付けたものかも知れず、留め金は、貧弱かつ向き(縦横)が間違っているので、しっかり止めることは難しい。
手前に置かれた3つの原基らしきものは、偶然できた線条の固定であり、基準には遠い。
この奇妙な線条を固定した原基(?)を収納する箱は、重厚さと軽薄が混同し、整然としてもいるという不可思議なものである。
混然一体、自由意思…とうてい原基とは名付けられないものを指して『3つの停止原基』と名付けている。このタイトルを翻訳すると、
『3つ(任意)の原基では無い物』ということではないか。停止は使用不可に等しい。
観念の否定、通念を覆す無常、デュシャンの作品には胸を衝く寂寥感がある。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
子供はまた起きあがらうとしました。雪童子は笑ひながら、も一度ひどくつきあたりました。
☆詞(言葉)の教(神仏のおしえ)の鬼(死者)の説(話)は同(平等)の旨(考え)であり、照(あまねく光が当たる=平等)が逸(隠れている)図りごとである。