続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)青葡萄。

2021-11-11 07:06:57 | 飯島晴子

   青葡萄ときには柩抜け殻に

 青葡萄はショウ・ブ・トウと読んで、章、部、謄。
 ときには柩(時柩)はジ・キュウと読んで、字、究。
 抜け殻はバツ・カクと読んで、末、佳句。
☆章を部(区分けし))謄(書き写す)。
 字を究(つき詰めると)末(終わり)に佳句がある。

 青葡萄はショウ・ブ・トウと読んで、捷、捕、投。
 ときには柩(時柩)はジ・キュウと読んで、児、球。
 抜け殻はバツ・カクと読んで、抜、隔。
☆捷(すばやく)捕(捕らえて)投げる。
 児(幼い子供)の球は抜けて隔(間が離れてしまう)。

 青葡萄はショウ・トウ・ジと読んで、傷、侮、套。
 ときには柩(時柩)はジ・キュウと読んで、自、赳。
 抜け殻はバツ・カクと読んで、罰、覚。
☆傷を侮り套(おおう/隠す)自(わたくし)。
 赳(強くたくましいこと)を罰(こらしめ)覚(さとる)。


M『風景の魅惑』

2021-11-11 06:44:59 | 美術ノート

   『風景の魅惑』

 風景・・・自然の景色、眺めである。この絵の中に自然はあるか? 
 魅惑されるような景色・・・フレームだけが直立しており、描かれた景色は背後の漆黒の闇を映すばかりである。薄い灰グリーンの床(台座)、壁は黒みがかった赤一色(血)、そこにライフルが立てかけられてある。

 死を誘引するライフル、そして虚空。PAYSAGE(風景)と刻んだプレートが貼られている、「これは風景です」と。
 マグリットの中の風景は現実の律を否定している。通念としての風景ではなく、精神的な眺望としてのリアルである。

 心象風景は死(ライフル)を通した向こうに在る。漆黒の背景(向こう)は未知の世界であり、そちらを願っても逝くことは出来ない景である。

 写真は『マグリット』展・図録より


『水仙月の四日』45。

2021-11-11 06:22:28 | 宮沢賢治

 子供はまた起きあがらうとしました。雪童子は笑ひながら、も一度ひどくつきあたりました。もうそのころは、ぼんやり暗くなつて、まだ三時にもならないのに、日が暮れるやうに思はれたのです。こどもは力もつきて、もう起きあがらうとはしませんでした。雪童子は笑ひながら、手をのばして、その赤い毛布を上からすつかりかけてやりました。

 子供(死境)はまた起きあがろうとしました。→起上(鬼、生)は死者になる、死者になろうとしました。雪童子(死の導師)はも一度ひどく突き当たってそれを阻止している。
 まだ三時にもならない・・・雪婆んご(死神)はその少し前に来ている。
 こども(子供ではない)は、もう起きあがろうとはしませんでした。鬼(死)の領域から離れている。
 雪童子(死の導師)は、その赤い毛布をすっかりかけてやりました。→赤(シャクと読んで釈、溶かす、薄める)薄めた亡・訃(死の報せ)をかけてやりました。《救済しようとしている》


『飯島晴子』(私的解釈)掌に伏せる。

2021-11-10 07:04:24 | 飯島晴子

   掌に伏せる桃のくれなゐ友怖し

 掌に伏せるはショウ・フクと読んで、掌、覆。
 桃のくれなゐ(桃紅)はトウ・コウと読んで、党、交。
 友怖しはユウ・フと読んで、友、怖。
☆掌(手のひら)を覆(ひっくりかえす)党(仲間)との交友は怖い。

 掌に伏せるはショウ・フクと読んで、傷、伏。
 桃のくれなゐ(桃紅)はトウ・コウと読んで、闘、攻。
 友怖しはユウ・フと読んで、雄、夫。
☆傷を伏(隠して)闘い、抗(はりあう)雄(いさましい)夫(男子)。

 掌に伏せるはショウ・フクと読んで、粧、服。
 桃のくれなゐ(桃紅)はトウ・コウと読んで、統、好。
 友怖しはユウ・フと読んで、友、風。
☆粧(よそおう)服を統(一つにまとめること)を好む友の風(傾向)。

 掌に伏せるはショウ・フクと読んで、承、服。
 桃のくれなゐ(桃紅)はトウ・コウと読んで、蕩、交。
 友怖しはユウ・フと読んで、有、夫。
☆承服(承知して従う)蕩(だらしない)交(お付き合い)。
 有夫(夫のいる身)である。

 


M『狂気について瞑想する人物』

2021-11-10 06:40:22 | 美術ノート

   『狂気について瞑想する人物』

 つまり、狂気とは何かである。
 正常でない状態…常軌を佚す。男は首を突き出して何かを凝視しているが、その眼差しの向かうところには何もなく、空無、虚空である。
 眼差しは可逆かもしれない。

 男は吸いかけの煙草を手にしている。すなわち時間の経過、あるいは止まった時間を示唆しているのかもしれない。男の着衣はごく普通の社会人の枠を外していない、つまり、正常な生活者の様相である。

 にもかかわらず、狂気について瞑想するとある。彼自身は狂気でないということであり、狂気を客観的に追求しようとする姿勢である。

『狂気とは何か』この判断を究めようとするのは、自身の中に狂気と判断せざるを得ない何者かに思い当たるからではないか。
 結果、彼が見出した答えは《見えないものを見る》、現実に姿形を見えるものとしない幻想、幻惑・・・自身の中の妄想かもしれず、自分自身を知る(見つめた先)茫洋とした世界に執着しつつ探求を続ける主観とそれを見る客観を一つにしたものである。

 写真は『マグリット』展・図録より


『水仙月の四日』44。

2021-11-10 06:22:35 | 宮沢賢治

「さうさう、それでいゝよ。さあ、降らしておくれ。なまけちや承知しないよ。ひゆうひゆうひゆう、ひゆうひゆう。」雪婆んごは、また向ふへ飛んで行きました。

「そうそう、それでいいよ、さあ、降らしておくれ。なまけちゃ承知しないよ。」雪婆んごは、雪童子(死の導師)や狼(大神)たちの様子(見かけ)を肯定している。
 非有、非有、存在にあらず、存在を消す、無に帰していく、すなわち《死)である。

 雪婆んご(死神)はまた向こう(あちこち、全域)へ飛んで行きました。
 雪婆んご(死神)と雪童子・狼(死の導師と大神)とは同じ方向を向いていない。片や《死》へと誘引し、片や《生》へと救済しようとする見えない攻防を感じる。


時間は止まったまま。

2021-11-09 07:35:37 | 日常

 昨日と今日の区別がつかず、一週間の速さに驚き、一年は一瞬にして飛んでいくという感じである。どこも何も変わっていないのに確かに時は動き、時代は変化している。

 取り残されたわたし。身体の劣化、急速に古びて不自由かつ痛い毎日。
「そんなに長くない」と胸の中。
 あと少し。正真正銘のお婆さんとして、まだ生きるのだろうか。

 白露や 死んでいく日も 帯締めて(鷹女)

 ・・・難しい。
 今日はサークルがあり、出かける。雨、大雨の中を歩く老女、なんか切ないね。
「七宝焼」今更アクセサリーを作ってどこへいく?
 アクセサリーも進化している、七宝焼きなんて若い人には鼻もひっかけられない。
「娘に上げようとしたら、《要らない》って即答よ」と、メンバー。

 バザーに十円でもいいからと提供。
 徒労を承知で出かける、みんなと愚痴りながら、楽しくおしゃべり。こんな日が長く続くといいな!


『飯島晴子』(私的解釈)雪の麓に。

2021-11-09 07:15:17 | 飯島晴子

   雪の麓に面をかさね老いるとか

 雪の麓はセツ・レイと読んで、切、励。
 面をかさね(面重)はメン・ジュウと読んで、面、重。
 老いるはロウと読んで、労。
☆切(ひたすら)励む。
 面(向き合い)充(欠けた所を満たすため)に労(力を尽くして働く)。

 雪の麓はセツ・レイと読んで、窃、黎。
 面をかさね(面重)はメン・ジュウと読んで、免、事由。
 老いるはロウと読んで、漏。
☆窃(盗んだ)黎(多く)を免(許す)。
 事由(わけ)は漏(すでに秘密が世間に知られているから)。

 雪の麓はセツ・レイと読んで、説、零。
 面をかさね(面重)はメン・ジュウと読んで、綿、自由。
 老いるはロウと読んで、弄。
☆説(物語)の零(欠けているところ)を綿(長く続ける)。
 自由に弄(思いのままにする)。


M『軽業師の休憩』

2021-11-09 06:49:25 | 美術ノート

   『軽業師の休憩』

 軽業師、人の目を欺くほどに軟体である。空間の中で自在に自身の身体を移動、あるいは錯覚させる。軽く柔らかく時に記述は切断をすらものにする。

 観客の前での隙のない動き、並外れた緊張感。自身を客観視する軽業師の仕事は《動》である。
 しばしの休憩があるとしたら、《不動》に他ならない。一瞬の錯視の至極の困難からの解放・・・石のように永遠に動かず静かに眠りたいという願いを抱くのではないか、そうに違いないとマグリットはつぶやく。

 身体がバラバラになどなるもんかという薄笑い、軽業師は石壁の中に身体を溶かしゆっくり身体をうずめる。

 写真は『マグリット』展・図録


『水仙月の四日』43。

2021-11-09 06:31:43 | 宮沢賢治

「えゝ、さうです。さあ、死んでしまへ。」雪童子はわざとひどくぶつかりながらまたそつと云ひました。
「倒れてゐるんだよ。動いちやいけない。動いちやいけないつたら。」
 狼どもが気ちがひのやうにかけめぐり、黒い足は雪雲の間からちらちらしました。

「えゝ、さうです。さあ死んでしまへ。」雪童子はわざとひどくぶつかりながらまたそつと言いました。
《わざと》ひどくぶつかっている。心にもなく、裏腹に。
「倒れているんだよ。」起きあがってはいけない!(鬼に生まれてはいけない、死んではいけない)と言っている。
 大神たちは夢中になって辺り(子供→死境、生死の境)をかけめぐり、黒い足(悪しを扱く)は死の運(めぐり合わせ、運命)からちらちらしました。→悪を取り払う、け散らしている。
 雪童子(死の導師)は雪婆んごの命に従う風でありながら、実は生へと救済しているのではないか。