
曾我純之輔の「蝶は何故花を訪れるのか」(『コギト』5)は、若者が右傾化しているだの、ゆとりはDakaraだめなんだとか、絶望している皆さんに読ませるべき小説である。昭和初期のエリート大学生も大概だったことが分かるからである。
蝶は昔、人間が洞穴に住んでいた頃、なんだか欲求不満であった。「地上の栄華」よりも「天界の光栄」に向かって飛躍しようと思い、百合の花よりも「天使の涼しき瞳」をみたかった。神に会ったなら死んでも惜しくないと思い、ある日思い切って天高く上昇してみたが、あるところまで来ると、羽根が凍って動かない。そして墜落。おちたところは出発点であった菫花の上であった。
さすが蝶のくせに神に会おうとする蝶である、ここで「やっぱりね」とか反省する御仁ではない。自分の無能力と天の高遠さへの執着の矛盾に悩み、病んでしまったのである(←おいっ
しかしここからがすごい。
蝶の窮地を菫花から聞いた世界の花たちは、精選された蜜を持ち寄って(←どうやって持ち寄ったのかっ)、薬酒を造って蝶に送ったが、蝶は自棄になるばかり。
そこで、智者である龍膽(りんどう)を慰問使として花たちは送った。で、その智者は「生きることに価値を置きすぎてはいけない。」とか言いだし、「すべての理想は虚無である」とか言うのであった。で、蝶はなんだか納得したので、感謝した。龍膽は、自分は花々の使者に過ぎぬから感謝は「花の眷属全体に送られるべき」とか言ったと……さ。
で、蝶は、花から花へと飛び回るようになったらしいのである。
糞食らえである。花たちは、蝶をつかって自分たちの子作りを頼んでいるだけではないか。まったくけしからん話である。蝶がせっかく形而上学に目覚めたのに、「見える化」大好きな下々の草どもが足を引っ張ったのである。龍膽が「生きることの価値」を否定したのに注意せよ。日本社会は、常に若者たちにそう言っているのである。
昨日、テレビで、予備校のなんとかいう先生が「やりたいことより出来ることをやれ」みたいな説教を、高学歴無職の青年たちに垂れていたが、……確かにこれも場合によっては有効な場合がある説教だが、大概、かかる説教は、自由人に対する嫉妬からくるものであり、上の龍膽みたいなものだ。だいたい、こういう説教には、「感謝の心」みたいなものがくっついて、――要するに、本質的には人生で何の成果も上げられず相手にされなくなったと感じている大人の権力意識の現れなのである。
若者は勝手に、舞い上がって墜落していればよいのである。そこに惚れる花たちもいるだろう。
追記)墜落ではなく、落第ならわたくしの授業でどうぞ。