★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

太刀と仙人掌

2019-01-08 20:07:37 | 文学


沖崎猷之介(中島栄次郎)の「怕死」(『コギト』昭7・7)は、さすがに中島だけあって集中力が高い表現が印象的である。

梶井基次郎の「檸檬」が孤独な肺病のモノローグ心理劇だとすれば、「怕死」は、兄弟が脚気と肺病を患っている意味で、対位法的である。しかも二人はノンポリとマルクス主義者である。だから、檸檬の代わりに、太刀と仙人掌がでてくる。兄が語り手で、左傾して逮捕されているうちに肺を患って死が近い弟(順)がいる。

「檸檬」のようなモダンさと爆発で事態を打開することはもはや許されていない。

――仙人掌は夕方見るのが一番だ、――[…]もう冬至に近いなあ、私はひとりごとのやうに言って振りむくと、硝子越しの薄暗い部屋に実に美しいほどの順の顔がかーんと冴えかえってゐた。その時突然順がぶるぶると肩を振はすのが見えた。私ははつとした。瞬間がばがばと真赤な血が、叩き落とされた花のやうにぱつと散つた。ああ、ああ、ああ、私は何の意味もない事を口走つて駆けよつた。


檸檬の代わりに人間の頭が冴え返っていて、それが血を吹き出す――ここで終われば、ある意味で「檸檬」と同じなのだが、このあと、語り手の頭には、母が治療費の捻出のために売ろうとしていた「きらきらする太刀」で満たされている。で語り手は「本当に自分の死を感じたのはちやうどその時である」と語り終えるのである。

死は死ではなく、死を感じることである。――そんなわけはない。しかし、国中が没落意識と自意識過剰な状態に陥ると、ものの形はうえのように「ぶるぶる」と震え出す。この状況を突破できるのは、ある種の馬鹿しかないのだが、馬鹿にもいろいろいて、本当に馬鹿なことをやってしまうこともある。我々は。自らのなかにそんなドラマを反芻することになるであろう。

ところで、昨日は、我が首相が珊瑚礁は移したとか言っていたのを受けて、珊瑚礁が美しく空を飛んでゆく夢を見ました。