少し前の『群像』に載った堀江敏幸氏の「熊蟄穴」という短篇小説を読んだ。洗練された作品であったが、わたくしは古くさいので「人生に相渉るとは何の謂ぞ」という態度が文学のそれだと思い込んでいるところがあり、――それで、どうすりゃいいのさ、と思わせるような作品を避ける傾向にあって、したがって、堀江氏の作品には、いつももやもやしながら近づき、遠ざかり、を繰り返している。
白露は 消なば消ななむ 消えずとて 玉にぬくべき 人もあらじを
これは、男が「恋い焦がれて死にそうです」と言ったので女が詠ったものだという。白露(男)よ死にたいなら死んでかまわんよ、に続く「玉にぬくべき」という言い方が鋭い。惚れた腫れたでも、若者の決闘みたいな殺伐としたものがベースに流れている伊勢物語に対して、近代文学の業界には私小説あたりからか、――中年のもっさりした雰囲気のものが漂い始めた。どうも小説という形式からくる問題もありそうなのだが、これについてはいろいろな研究があるので、そちらに任せて、と。
研究業界における作品論の退潮にはいろいろな理由があるのだが、小説が近代文学の中心にいたことと無関係ではない。
小説の原理論と言えば――ここ数日『言語にとって美とは何か』についてあーだこーだと考えていたのだが、どうも彼が描いている図が案外わかりにくいのであった。わたくしは、吉本に於いて、工学的センスが良い意味でも悪い意味でも大きいと考えているのである。こういう書物は、左翼に対する反発というより、通俗化した左翼的風潮のなかのテクノクラート的感性に対するアンヴィヴァレンツな抗弁という意味合いがあると考えるべきだと思う。なぜ、吉本が詩人をやめてしまったのかは、高橋和巳の小説家になった理由とともに、いまでも喫緊のトピックなのだ。わたくしは、どうしてもそういう思いから離れることが出来ない。