
伊勢物語九六段はちょっと異質な話で、フラれたかもしれない男が女を「天の逆手」で呪った、というそれだけの話である。しかし、文章はちょっと複雑で、最後の部分は、こうなっている。
さてやがて後、つひに今日までしらず。よくてやあらむ、あしくてやあらむ、いにし所もしらず。かの男は、天の逆手を打ちてなむのろひをるなる。むくつけきこと、人ののろひごとは、負ふ物にやあらむ、負はぬものにやあらむ。いまこそは見め、とぞいふなる。
吉本隆明だったら、〈仮構〉性がなんたらと解説してくれそうなところであるが、語り手がAであろうか、非Aであろうかといったご託を並べたあげく、急に「今こそは見め」という男の生の声が飛び込む。滑稽なのかどうかはよくわからん結末だが、――ふりかえると、女が約束のときに来なかったのは、でき物が出来たからという理由だったのだ。やりきれなさまで決して行き着かない平凡すぎる現実というものを語り手は分かっているのであろう。
古谷実の『シガテラ』は青春を描いたものなので、最後のセクションで急に大人になっている主人公のほうの現実がなんとなく夢のように平板で、青春時代が悪夢とトラブルと思いこみに満ちていたように構成されている。しかし、本当にそうなのであろうか。どうも現実は逆のような気がする。「いまこそは見め」という呪いが真に存在するようになるのは大人になってからのような気がする。わたくしが、人に比べてものんびりと青春時代を過ごしたからかもしれない。
上の九六段は、昔男が歳をとっていく章段群にはめ込まれているようにみえるけれども、確かにそれは老いの「呪い」の話かもしれない、と思った。