むかし、ことなることなくて尼になれる人ありけり。
いまでも大した理由もなくアイドルが尼になって謝罪したりしているが、尼になったからといってお祭りを見に行ってはいかんというわけではないだろう。だから、
かたちをやつしたれど、ものやゆかしかりけむ、賀茂の祭見にいでたりけるを
と言う語り手は更なる嫌みを誘発している(――というわけではなく、この語りこそ歌にくっつけたのかもしれないが――)ようなもので、
世をうみのあまとし人を見るからにめくはせよとも頼まるるかな
お前に目配せなんかするかいな、と読者が思ったところで、とどめの一撃。
これは、斎宮のもの見たまひける車に、かく聞えたりければ
斎宮といっときゃ読者が「おっ」「いやー斎宮斎宮」と嫌らしく騒いでくれるのであろうと語り手は思っているに違いない。最近天皇が「国民に寄り添う象徴」みたいな形で祭り上げられつつあるが、そもそも戦前の天皇でさえ、神というよりは「臣民とともにある父母」的な存在であって、その抑圧(というか模倣のための「手本」の提示なのであるが――)が戦前はパパ的であって戦後はママ的であるという違いしかない。戦前からの断絶をあんまり曲解し続けているとまたくだらない儀式化にまで行き着きそうだが、もう既にそうなっているので手遅れだ。儀式が強制されるというのは、天皇に対してのみだったらまだ権威への服従なので分かりやすいが、ああいう儀式はわれわれの大概のコミュニケーションの様式をみんなが共有・模倣していることを確認するために、手本たる天皇に対してやって見せているにすぎない。
どうも上のような斎宮叩き?には、手本たる天皇の輪郭をつくるための土俵作りみたいなところがあるのではなかろうか。――周縁の斎宮やお相撲さんを叩いていわば神社本殿の空位みたいなものを愛でてみても、実際のところは神は出てこない。――ので、ますます愛で続けるしかなくなるのだが、もはや、冷静に考えればそれは自分の行為への愛、自己愛に近い。これが成立してしまうと、自分の愛でる者以外は全部叩くみたいな馬鹿みたいな土俵作り状態になるのである。正直、こんなのは帝国主義とかナショナリズムとは何の関係もなく、自己確認みたいなものだから罪悪感もないのだ。こういう経路に必要な、根本的な自己肯定を七〇年代以降いろいろあって、われわれはもう回復して久しい。鷗外の「玉篋両浦嶼」を読んでいたら、芥川龍之介の、鷗外はやっぱり自分たちみたいに「神経質」に生まれたのではない、とかいう言葉を思い出したが、鷗外の方が本当は神経質だったのかもしれない。芥川龍之介はなんだかわからんがいろいろ愛でる人だったから……。いろいろ愛でるということは、自分が空位みたいになっているようなものなのであろう。上の話において恋愛の不能が不在の中心問題であるように。