★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

全く相対界のノーマル事件だ

2019-01-28 17:58:05 | 文学


肥下恆夫「佐伯家の人々」(『コギト』昭7・10)は、神経質な作品であるが、なぜそうかというと、視点への意識がそうなのである。雪かきをする下男の視点から出発し、彼が二人の青年を見、その二人――佐伯と吉野のうち、後者が佐伯家の人々の絵をかくことを頼まれる。吉野は、佐伯家の人々を描こうとする時に、彼らの大きな目から見られていることを意識する。その目は彼らの血筋から受け継がれたものであることが、写真などからわかる。だから、彼らの目は死んだ人の写真のように冷たく、それは家を包む雪の情景と重なっていて、すなわち、最初の下男の視点を共有しているのである。しかし、夫人は娘(「静子」!)の目から、吉野に対する気持ちを読み取り、その冷ややかなものからの変化を感じる。佐伯は、吉野を「上へ上へ流れている男」とみていた。佐伯自身も自分の家を「「そとから」眺める」ことができ、だからこそ吉野を連れてきたのであった。なんだかんだあって、外に出た、動かぬような動いているような静子に美しさを見出してゆく吉野であった。ただ、弟の叫び声で彼女は家に帰ってしまう。そこに吉野が見出したのは佐伯家のいつもの「氷のような冷たさ」であった。

こんな具合で、結局、家に対する認識がなんとなくであると、視点を工夫してもなんとなくにしか見えないものであって、下男も佐伯も吉野も静子もほとんど万華鏡のどこを見るかみたいなかんじになってしまうのであった。この苦しさこそが、若く言論の自由を奪われつつある彼らを特徴付けている。これに比べると、中原中也なんかは、人間をもはや物のレベルで捉えている。ここまできてしまうと、雪が降ろうと雷が鳴ろうと心が乱れることはあるまいて。

タバコとマントが恋をした
その筈だ
タバコとマントは同類で
タバコが男でマントが女だ
或時二人が身投心中したが
マントは重いが風を含み
タバコは細いが軽かつたので
崖の上から海面に
到着するまでの時間が同じだつた
神様がそれをみて
全く相対界のノーマル事件だといつて
天国でビラマイタ
二人がそれをみて
お互の幸福であつたことを知つた時
恋は永久に破れてしまつた。


――「タバコとマントの恋」