★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

拘る思ひを、ぶち断らう

2019-01-10 19:56:26 | 文学


野上吉郎は、本名を石山直一といい、のちに倫理学の論文があったりして、クリスチャンらしい(田中克巳の『コギト』解説)が、このころは文学青年であった。彼が高校の社会の先生をやっていた頃の回想を読んだことがあり、そこでは案外、飄飄と過去を語っていたけれども、実際は結構なのめり込み方であったと思うのである。

相良という青年が、自殺した友達(小宮)の郷里を訪ねた顛末を描いた「夏」(『コギト』5)を読んだが、難解なところがあるけれども結構いい作品であった。大量の読書によって培われた、にじみ出る叙情性があって、この時期の保田與重郎なんかよりも成熟している気がする。これがよいこととは限らないのだが、結構上手だとおもった。

友人小宮は大望を抱いていたらしいのだが、田舎に帰った。父親が「村長にしてやる」と言ったとか。彼は子どもたちと凧を揚げたりして陽気に振る舞っていたが、冬のある日家を出てそのまま雪に埋もれて死んでいた。興味深いのは、相良というのは、小宮と一番の友達ではなく、彼の郷里に行くこと自体にある種の欺瞞を感じているということである。

俺は小宮に同情するより、彼にとつついた運命のどす黒さを憎む。相良は楡の梢に鳴つて居た爽かな風の音をもう一度聞いた。
 俺は、あの風の音に、声を合わせて歌ふことが出来る、他人の、どす黒い運命に拘る思ひを、ぶち断らう。夫れが小宮を忘れる事になると言ふのか。相良の心は明い真夏の光を憧れてゐた。


この小説では、屡々遠雷が鳴っていて、それが風とか田舎の太陽や蜥蜴なんかとパノラマをつくり、死んだ小宮の存在は人の記憶や思考にしかない。相良においては、乗合自動車の女車掌への気持ちが行きと帰りではやや変化するので、彼にとって重要なのは生なのだとわかるが、――それにしても、なんの解決ももたらさないこの風景のような小説は、ある種の誠実さのあらわれだ。この小説に使われた「風」や「凧」、あるいは「運命」の意味を示さないことは、我々の文化風土では一応勇気のいることなのである。芥川龍之介なんかは、混乱した風をみせてはいるが、晩年の保吉もので示されているのは、ある種言葉の「意味」への屈服なのである。後に続く青年たちは、一応、保田にしてもこの野上にしても、それに抵抗はしているのであった。