いづれの御時にか、 女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、 いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり。
日本文学に燦然と輝く最高の出だしである。「あらぬが」から一気に「すぐれて時めき給ふ」という上昇感がたまらない。
はじめより我はと思ひ上がり給へる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉み給ふ。 同じほど、それより下臈の更衣たちは、まして安からず、朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを
中学か高校の時に授業で読んだときに、なんという嫌らしい文章かと思ったが、今読んでみると、そのジェットコースター的展開が紫式部の才能を見せびらかすようでこれまた嫌らしい。その前の「すぐれて時めき給ふ」の昂揚が「思い上がり給へる」方々に変容するいやらしさ。「めざましきものにおとしめ嫉み」という落下、それが「それより下臈」という底を打つかんじに抽象的に下がったあとで、「朝夕の宮仕へ」という具体的な場面で、「人の心を動かし」というなんだか他人事のような素っ気ない言い回しがきて、「恨みを負う積もりにやありけむ」によって、「人」という言い方が、前に出てきた多くの恨みを持った人全体を導くようで、――それで一気に、まだ名前がない「時めき給ふ」そのひとは、里がちになってしまうのであった。
この襲いかかる迫力は、伊勢物語にはなかった。
しかし、これまた帝の方もあれで、
人のそしりをもえ憚らせ給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり
なのであった。嫉妬に狂う女たちの群をなんのその、「世のためしにもなりぬべき」もてなしを女にしてしまうのであった。ここでの「世の例し」という大きい突き放しもすごい。でかいっ。既に、「世」の悪い前例として扱われるレベルの事件だったのだ。昔男が、地方に行って女の子と遊んでいたレベルとは全然違う。しかしまあ、人は都に行ったりするとそれだけで誇大妄想をする傾向はある。宮中というのはそういう勘違いで満ちていたに違いないのだ。
田舎者の癖に人を見括ったな。一番茶代をやって驚かしてやろう。おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐に入れて東京を出て来たのだ。
対して、こういう風に自分だけが「人」で、田舎者は人ではないと思っている「坊っちゃん」もいましたが、彼も結局、里帰りしてしまいました。東京が里でよかったね。