男はた、寝られざりければ、外の方を見いだしてふせるに、月のおぼろなるに、小さき童を先に立てて、人立てり。
伊勢物語の由来とも言われる「狩りの使」の話の面白さはいろいろあるのであろうが、私が一番いいと思うのは、伊勢の斎宮ともあろう女が、狩りの使である昔男の寝所に本当にすらっとあらわれてしまうこの場面で、「月のおぼろなるに、小さき童を先に立てて、人立てり」というところがすごい。もはや、「2001年宇宙の旅」を思わせる「急にきたぞ、なんかすごいのが」という感じであり、このあとのふたりのやりとりは、この場面の残響に過ぎないという感じがする。斎宮に特に幻想を持っていないわたくしなどでも、斎宮に惚れてしまいそうである。これに比べると、下はどうであろう。
迅雷を掩うに遑あらず、女は突然として一太刀浴びせかけた。余は全く不意撃を喰った。無論そんな事を聞く気はなし、女も、よもや、ここまで曝け出そうとは考えていなかった。
「どうです、驚ろいたでしょう」と女が云う。
「ええ、少々驚ろいた」
――漱石「草枕」
適当に引用してみたが、さすが近代文学、すべてを書いてしまうことで、下品さへの滑落が始まっていると思われるほどだ。中勘助が言うように、漱石というのはそんなところがあるのかもしれない。
そういえば、ハイエクの『隷属への道』というのをはじめて読んでみたが、著者自身が言っているように、これはちょっと厚いパンフレットみたいな本だと思った。ただ、本当のことを言い過ぎるのだとジョージ・オーウェルが言っていたらしい(Wikipedia)。確かに、全体主義にしても社会主義にしてもそれを批判するときに、その国家に責任をおっかぶせることは簡単だ。しかし民衆の自由さに責任を負わすことはできるのか。ヒトラーの頃も、現在もわれわれが直面している問題である。