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松田明「鮎の如くに」(『コギト』7)は、絵にかいたような話である。
田舎で育ちました→父親の懐が寂しくなりました→進学を諦めて徴兵されました→なぜか功名心発動→陸軍士官学校に入りました→肋膜炎に→帰郷→友だちの川辺がいて文学者志望でした→彼の同人誌に書かせて貰いました→うれしかった→川辺と田舎で談笑(川辺はロマンチストでした)→父親に言われて結婚しました→おめめがかわいい田舎娘です→川辺は親の反対を押し切って都会で結婚→父死去→文学熱が盛り上がる+体衰弱→妻妊娠→鮎を釣りに行く
この鮎のやうに、若々しく強く生きよう。昔の野心のない、幼い心に立戻って、愉快な、平和な生活の出発点に再び引き返へてゆこう。[…]その夜俊二は、妻の加代に、文学を抛擲すると宣言した。
やる気がないんなら、さっさと止めればよろしいので、鮎の力を借りるまでもない。鮎が必要だったのには理由がある。妻が妊娠したこともあるが、生活が成り立つかどうかという恐怖、川辺には才能でかなわないという諦念(川辺は田舎ではしゃぐ「ロマンチスト」だから自分も田舎にいてよい)、が大きな理由である。書いてないがそうなのだ。作者もおそらく自覚的であり、さらにそれをもう少し美しく糊塗するために、主人公の村のエピソードが二つ冒頭にさりげなく紹介されている。一つは、嘉兵衛という男が町娘を一生懸命恋してついに自分の妻にしてしまった話である。二つ目は、南北朝時代に、南朝に味方して戦ったという伝承である。そういう彼らは春になると鮎を捕りに行くというのだ。途中で谷崎の「吉野葛」が引用されて意味ありげである。――すなわち、この村は現在の皇室になんかよくわからんが寄与し、町娘を貰って血筋を絶やさず生き続けるというアイデンティティを持っているということである。鮎は無論、伝説的に皇室に関係あるわけで、と……
「田舎教師」や「海の中にて」に比べると、なんとなく、胸に一物あるご様子とはいえ――えれえ物わかりがよくなったとしか言いようがない。たぶん、文学の地位向上が、主人公に「功名心」を持たしているところが大きな原因だ。功名心に釣られていたくせに、最後には愛郷心とか糞伝説を持ち出してくるところが今のある種の人々にそっくりであるが――確かに、こういう挫折者が田舎で郷土史や童話の発掘に寄与したことも事実であり、確かに町中でうじうじしているよりましな場合も多い。何もできず、都会でふらふらしているうちに空襲で死ぬのと、粘りづよく旧習のことを観察し続けるのと、どちらがよいのかはやってみなけりゃわからない。――という風に高度な罠をかけてくる場合もあるから、若者たちは気をつけた方がよい。
理屈は慰めに過ぎない。ただひたすら、文学をやりたきゃやればよいのである。遊びじゃないんだから……