わたくしは大学に入るまでにまんがをほとんど読んでいないので、さぞ時代遅れになっているかと思っていたのであるが、どうもそういうわけではなく、ほとんど読んでもいなかった吉田戦車のまんがにふれてみると、ほとんど自分がネームに関わっているのではないかと錯覚するほどであり、なにかおかしい。以前に三浦哲郎や村上春樹についても同様のことを指摘したことがあるが、同時代性というのは読んでいなくても存在するのではなかろうかと思っていた。
しかし考えてみると、そういう空気みたいなものを表現できるのが一流の作者なのかもしれず、――だからこそ、自分だってこのくらいは書けるぜと思って思春期の読者たちが創作の迷路に彷徨し始めるのであろう。
また、吉田戦車などは、漫才とか映画にもかなり影響を与えたようなので、それを受容したわたくしが原点を見出しただけなのかもしれない。
吉田戦車はだいたい一〇歳ぐらい上の世代で一九六〇年代の前半に生まれている。
がっ、わたくしが想像上、一番共感を覚えているのが、一九〇〇年代から一九一〇年代の生まれの人たちである。わたくしは一九二〇年代生まれの作者になるとその若造感に堪えられない。
で、杉浦正一郎の「草」(『コギト』8)は、彼の「開港紀 4」で、なんだかよくわからんが、前作の続きのようでもありそうでないようでもある。従姉妹だと思っていた少女が、実の妹だとわかり、なんだかほんとに彼女に恋してしまっている主人公であるが、なかなか自分との身体的な共通点が見いだせないので、「せめて自分の不安を頼らねば」と思う。その不安とは、例の「三人吉三」の話を思い出したことによる不安である。おとせと十三は実は兄妹で恋仲である。結局、和尚吉三によって首をはねられる。
不安さえもフィクションによって呼び起こさねばならない、そのことは、案外重要なことである。