故、ここに、速須佐之男命言したまひしく、「然らば、天照大御神に請して罷りなむ。」とまをして、天に参上ります時に、山川悉に動み、国土皆震りき。爾に天照大御神、聞き驚かして詔りたまひしく、「我が那勢命の上り来ます由は、必ず善き心ならじ。我が国を奪はむと欲すにこそ。」と、のりたまひて、御髪を解き、御美豆羅に纏かして、亦御鬘にも亦左右の御手にも、各八尺の勾潴の五百津の美須麻流の珠を纏き持たして、曽豐良には千入の靫を負ひ、五百入の靫を附け、亦伊都の竹鞆を取り佩ばして、弓腹振り立てて、璧庭をば向股に踏み那豆美、沫雪如す蹶ゑ散かして、伊都の男建踏み建びて、待ち問ひたまひしく、「何故上り来ませる。」と、とひたまひき。
マザコンスサノオ暴風が急速上昇、それを迎え撃つ太陽神の女神様、――まさにお母さんのかわりに姉上の所に行ってしまったというどちらにしても近親何とかの怖れあり。
今日、ポップコーンを煎っていたら、外で夕立が降っていたのに気付かなかったが、小さい物丸い物、変なかたちの物などに対する我々の興味は、何かを忘れさせるところがあり、ここでも、よくよく見ると、アマテラスの武装の場面が、「蒲団」で時雄さんが芳子のリボンとか何やらを並べて絶望=興奮しているのを越えたじゃらじゃらした小物などで装飾されているのを見ることができ、アマテラスの向股なんかを描いたあげく、沫雪の如き土煙まで塗しているのである。
どうみても語り手の魂は、スサノオよりはやくアマテラスを見に行っているのである。
輝く個々の武器を太陽神のオーラにまで引き延ばすことがなければ、彼女は戦闘美少女になってしまう。
プロコフィエフの「スキタイ組曲」の終曲では、その引き延ばされたオーラを聴くことができる。我々の文化はここまで陶酔出来ないものがある。
海は昼眠る、夜も眠る、
ごうごう、いびきをかいて眠る。
昔、昔、おお昔
海がはじめて、口開けて、
笑ったときに、太陽は、
目をまわして驚いた。
かわいい花や、人たちを、
海がのんでしまおうと、
やさしく光る太陽は、
魔術で、海を眠らした。
海は昼眠る、夜も眠る。
ごうごう、いびきをかいて眠る。
――小川未明「海と太陽」
こういう感じのまま、崇高なるものに向かおうとすると、――言葉が見つからずに、代わりにでてくるのが行動である。