
次に伊予之二名嶋を生みたまひき。この嶋は身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ、伊予の国を愛比売といひ、讃岐の国を飯依比古といひ、粟の国を大宜都比売といひ、土佐の国を建依別といふ。
四国が生まれました。なんと顔が四つあるばけものです。四国が伊予(愛媛)の名を冠しているのは何かあるんでしょうね。愛媛は前方後円墳が少ないという話を聞いたことがある。わが讃岐は、峰山と言うところに(大学からみると、全体が古墳に見えるんだけど)たくさんあるのである。讃岐に大和朝廷の初期段階で都だったんじゃないかという説まできいたことがある。
以前、中国に行ったときに、人民服の雑踏の中で、ガイドが、あれが万里の長城の一部だよ、と指さす方向を見ると、煉瓦が取り去られた砂山みたいなものが程よく遠くにいくつかあるのだった。いまでも瞼の裏に焼き付いている。
我が讃岐も、どうみても山に見えないお椀のような小山がある。人の営為ではなく、自然の営為だ。これが中国との違いであろう。我々は、自ら作ったモノから影響を受ける。道具に影響を受けるのと同じ事だ。日本ではその契機が生じにくいというのもあるのかも知れない。
それにしても、古事記のときの国の区分がほぼそのまま今まで残っているのも異常に思えるわ……
土佐 門狭ですなわち佐渡の狭門に同じく狭い海峡をはいって行く国だとの説がある。しかしアイヌで「ツサ」は袖の義である。土佐の海岸どこに立って見ても東西に陸地が両袖を拡げたようになっているから、この附会は附会として興味がある。もしこれがアイヌだとすると、隣国讃岐は「サンノッケウ」すなわち顎であろう。能登がアイヌの「ノト」頤である事は多くの人が信じている。
坪井博士の説ではトサはやはりチャム系の言葉で雨嵐の国だそうである。これだとあまり有難くない国である。
高知 これは従来の説では、河内すなわちデルタだそうである。坪井博士の説ではチャム語で島である。しかしアイヌだと「コッチ」「コーチ」宅地となる。これはまたマレイの「コータ」堡塁とのある関係を思わせる。
以上は大部分ただ偶然の暗合に過ぎないかもしれない。しかし中には実際ある関係をもつものもあるかもしれない。関係があるとしても、それがどういう関係であるかは分らない。実際アイヌの先祖の言葉であるのか、また我々の先祖の言葉が今のアイヌの言語に混入しているのか、あるいは朝鮮、支那、前インド、南洋から後に渡来したのがアイヌの先祖と吾等の先祖の言語に混合しているのかそれはなかなか容易に決定し難い問題である。
ただ以上のようにこじつけ得られるという事自身には何らかの意義があるであろう。この事実がもし我郷土の研究者に何かの暗示を与える端緒ともならば大幸である。
――寺田寅彦「土佐の地名」
どうもわたくしの田舎なんか、近世あたりまで縄文時代が続いていた――、あるいはアイヌ系がずっと残ってたみたいなことがまことしやかに言われたりするのであるが、どうでもいいかな、人のごたごたがそれほど記録される程なかったような気がするからだ。四国はいずれにせよ、国の境はあまり変わらなかったかもしれないが、絶対死屍累々の土地なのだ。寺田寅彦はあまりそういうことは気にならないたちかもしれないが、――