かれ火照の命は、海佐知毘古として、鰭の廣物鰭の狹物を取り、火遠理の命は山佐知毘古として、毛の物毛の柔物を取りたまひき。ここに火遠理の命、その兄火照の命に、「おのもおのも幸易へて用ゐむ」と謂ひて、三度乞はししかども、許さざりき。然れども遂にわづかにえ易へたまひき。ここに火遠理の命、海幸をもちて魚釣らすに、ふつに一つの魚だに得ず、またその鉤をも海に失ひたまひき。ここにその兄火照の命その鉤を乞ひて、「山幸もおのが幸幸。海幸もおのが幸幸。今はおのもおのも幸返さむ」といふ時に、その弟火遠理の命答へて曰はく、「汝の鉤は、魚釣りしに一つの魚だに得ずて、遂に海に失ひつ」とまをしたまへども、その兄強に乞ひ徴りき。かれその弟、御佩しの十拳の劒を破りて、五百鉤を作りて、償ひたまへども、取らず、また一千鉤を作りて、償ひたまへども、受けずして、「なほその本の鉤を得む」といひき。
交換というのはまったくうまくいかないことが多くて、――仕事の量的な平等性はそれぞれの仕事の目的は何なのかという観点ぬきにやると悲惨なことになる。大学でもときどき仕事の量を機械的に平等にしようとしている浅薄な輩がいるが、そういう人間に限って生きる目的を失っている。目的をうしなったことを量で置換しようとしている。交換という観点は、ルサンチマンに溢れている者――ふつうに行動していたらバカにされたり信頼されないことが分かっている者がかならず持ち出すもので、そういう現象は必然であるが、社会がそれに権威的お墨付きを与えている。だからいつまでもたっても学歴とか業績にぶら下がるだけの人間が羞恥心を持つことができない。わたくしの考えでは、上の挿話で道具を交換してみようといったホオリ(山幸彦)の方が悪い、というかルサンチマンを抱えていた可能性が高いと思う。
かかる人間的情景に我々は長い間堪えられない。すると、大概、仕事を上からの命令というものに置換して納得しようとする輩が現れる。近代的な解釈かも知れないが、古事記の神々も、上のホオリとホデリの地点から命令主体を逆算的に仮構した可能性すらあるとおもうのだ。
昨日、藤野裕子氏の『民衆暴力』を楽しく読んだが、暴力は、その暴力によって偏見や欲望などの自己開示を促してしまう可能性があり、――スターリンはロシア革命の自己開示的効果といってもよいかもしれない。15年戦争だって、我々にとってはそういうものかも知れない。日本は暴力に臆病だというのはむかしから言われていることではあるのだが、それは我々が自己表現に臆病であることと密接に繋がっているのである。
「この野郎、人を馬鹿にしやがって手でふんづかまえてやろうか」
と思って、私は四辺を見まわした。
勿論誰も見てなんかいない。
竿の元の方で突いてやろうか、とも、私は考えた。が、そもそも、そう云うことを考えるのがいけないのだ。身勝手過ぎるのだ。もともと、魚釣りと云うものは、詐欺なのだ。
だから、山女魚の方で、その詐欺に引っかからないからと云って、人間の方で憤るのは筋が間違っているのだ。憤りはしないが、少くとも面白くない。
――葉山嘉樹「信濃の山女魚の魅力」
葉山嘉樹も釣りは運動であるといっている。なんだか彼が怒っているのもそのせいではないだろうか。本当は、釣りは我々が食べるためにするものであろう。考えてみたら、ホオリ(山幸彦)も食べるために釣り針をほしがったのではなかった。