★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

絶対矛盾的天孫降臨

2020-08-19 18:33:19 | 文学


爾くして、天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命、あはせて五伴の緒を支ち加へて天降しき。是に、其のをきし八尺の勾璁・鏡と草那芸剣と、亦、常世思金神・手力男神・天石門別神を副へ賜ひて、詔ひしく、「此の鏡は、専ら我が御魂と為て、吾が前を拝むが如く、いつき奉れ。次に、思金神は、前の事を取り持ちて政を為よ」

天孫降臨はいろいろと技術者集団とか三種の神器のほか、政治係(オモイカネ)などを引き連れて行われた。考えてみると、柱をぐるっとまわって島を生んでいたときは、神々は裸一貫で苦労していたのだ。長い時間をかけて、この世を治めることは、技術であり祈祷でありと気づかれ、なにより、政治の、統治そのものからの「技術的」分離が行われたのであった。

我がくにでは、まだ「物作りの国だ」というたぶんもう世界的には通用しない神話が残っているが、そもそも物作りというのは、統治の一環であったことを忘れてはならぬ――というか、そういう意味でまだ使われているのであろう。

もっとも、世界を治めることとは、この世の創造そのものなのであって、「つくる」ということの重要性に神々が気付いたことを意味している。ここはもはや、田んぼに雨が降ったり風が吹いたりすることの象徴物体としての神ではなくなっている。国を技術者とともに創造するという人工的な意図が、天孫降臨である。

――また妄想してしまいましたが、これ以上妄想すると、わたくしもそろそろポイエーシスとか言い出して西田幾多郎になってしまいそうです。

それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。何処までも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。

――西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」


わたくしは、中学のころ授業でやった木彫の世界を思い出す。西田の言っていることは案外落ち着いた創造の世界で、最初の有が知らないうちになくなっていくものではないような気がするのであった。もはや、日本列島は神々に生み出されて長い時間がたっている。四国では、もう圓山の世界になっていたであろう。