故、神倭伊波礼毘古命、其地より廻り幸して、熊野村に到りましし時、大熊髣に出で入りて即ち失せぬ。ここに神倭伊波礼毘古命、たちまちにをえまし、また御軍も皆をえて伏しき。この時、熊野の高倉下、一ふりの横刀をもちて、天つ神の御子の伏したまへる地に到りて献りし時、天つ神の御子すなはち寤め起きて、「長く寝ねつるかも」と詔りたまひき。
神武東征は史実としてはかなりあやしいが、奈良あたりに着く前のあたりもあやしい。九州あたりから出発したとして、ずっと東に攻め上がってきた神武天皇は、和歌山までいってから北上してくるのである。有名な熊野(新宮)でのエピソードが上である。もうすこし熊なんかに気をとられずに、木曽のあたりまで突入していれば、木曽町あたりに都ができたかもしれんのに、ちゃんと熊野で重要な事件があって、ぐるっと進路を変えてしまうのだ。
熊野に入ったときに、荒ぶる大熊の化身があらわれて消えた。神武天皇は卒倒してしまう。続いて軍隊全体に心神喪失が広がり、壊滅状態になってしまうのである。このとき、高倉下という人が、横たわる天神の子(神武天皇)のもとにやってきて、一振りのたちを献上する。すると天皇はすっくと起き上がり「ああ長く寝たなあ」と言ったのだ。
お前は何を言ってるんだ、お前は寝ていたのではない。病気だったのだ。
そういえば、病気のためということで、今日首相が辞任を発表していましたが、まさに「**は彼方より電撃的に到来する」(ブランキ)のであり、安倍政権というのは最後まで電撃的な革命政権であったといえよう。そういえば、千坂恭二氏もどこかで、天孫降臨は外部から招来した革命みたいなものだといっておりました。別に外部から招来しなくてもよい、気がついたらとなりの人が招来した人であってもよく、――古事記がつくり話であってもよいのだ。我々が革命を見出せるかは、物事がきわめてゆっくり推移していることを認めた上で、断絶というものを見出せるかにかかっている。ロシア革命なんかも、嘘にまみれていたにちがいない。今回の安倍辞任に際して、メディアはあいかわらず嘘を垂れ流していたのだが、物事が変わる曲面では、嘘のカンブリア爆発というものが必要なのであろう。コロナが外部からの衝撃だったのではない。やはり安倍首相がそれであった。
だいたい一国の王様の資格には万世一系だの正統だのということが特に必要だというものではない。王様を亡して別の一族がとって代って王様になっても王様は王様だ。三代貴族と云って、初代は成り上り者でも、三代目ぐらいに貴族の貫禄になる。十代前が海賊をはたらいて稼いだおかげで子孫が今日大富豪であると分っていても、民衆の感情は祖先の罪にさかのぼって今日の富豪を見ることはないものだ。王様も同じことだ。初代が国を盗んだ王様であっても、民衆の感情は初代の罪にさかのぼって今日の王様を見ることはない。今の王様であることが、王様の全てであり、それが民衆の自然の感情だ。
――「安吾の新日本地理 飛鳥の幻――吉野・大和の巻――」
坂口安吾のような考えに従えば、安倍首相はいわば「王様」であったのかもしれない。三代目だし……。ある古典文学の学者が「安倍はあれだけども家柄はいいからな」と呟いたのを覚えているが、それは岸信介の成り上がり的罪とのつながりよりは、安倍氏がつながりが閑却された貴族的ななにかを発していることの指摘だったのかも知れない。そういえば、私も教師としては三代目のような気がするが――、ようするに、日本という国は、三代前の経験した悲惨と成り上がりが、貴族的ななにかに変化した世界であるかもしれない。そしてそれが自壊しつつあるのだ。革命はやはり電撃的に見えるが、過程においてしか経験されない。