★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

上は高天原を光し、下は葦原中国を光す神、是に有り

2020-08-18 23:52:58 | 文学


オオクニヌシとその息子たちを、汚い手を使って征服したアマテラス一味については以前書いたことがあるので、省略である。

爾に日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天之八衢に居て、上は高天原を光し、下は葦原中国を光す神、是に有り。故、爾に天照大御神・高木神の命を以て、天宇受売神に詔ひしく、「汝は手弱女人に有れども、いむかふ神と面勝つ神なり。故、専ら汝往きて問はむは、『吾が御子の天降り為る道を、誰ぞ如此して居る』ととへ」とのりたまひき。

思うに、天孫降臨が行われるにあたって、今更という感じがするのはわたくしだけではないであろう。もうオオクニヌシ以前のいろいろな神や怪物が地上にきてあたふたしている。イザナミとイザナギの件だって、どうみても雲の上で痴話げんかしてたのではなく、どこかの島の出来事なのだ。

古事記の編集のせいと言う人もあろうが、本当はそんなことはどうでもよく、この神話の世界はもともと地上のあれこれと二重写しになった抽象的な物象のようなものであって、神というからには、最終的に降りてこにゃと言うことで降臨されたに違いないのである。

卒業式で、校長先生のところに上がって降りてみたいなことを卒業生がするのと同じだ(違う)

それにしても、このサルタヒコという人は人気があって、全国の津々浦々に名前を変えて祀られている。いざとなったら、道案内をするお爺さんが居るのだ。実際はこういう人こそ現実にはいない。

現実の社会というのは、あるポジションに人を据えると、そのポジションが抽象的に機能すると勘違いされ、――つまりサルタヒコ化するが、そこに別の人を入れると、他の人との関係も変容を起こし、社会自体の運営の仕方を変えなくてならないのである。ただ、これは坂口安吾の「堕落」みたいなものであって、そんな変容には我々はいつも堪えられない。さっき、昭和22年に書かれた野上余志郎の「堕落論」批判を再読したが、野上は、安吾のいう人間が全然甘い抽象的なものであると難じている。野上は、もっと屈撓性のない人間性が社会を変えると思っているのかもしれない。マルクス主義的な人なんかは案外、法を作ることに一生懸命なタイプがいるが、――わたくしなんかも、中学のとき校則の試験で一位をとったことがある。こういうタイプは、表は倫理的に振る舞いながら、裏で唯の堕落を起こしやすい。

古事記の神々には今のところ、ヤクザじみた抗争と、やたら光り輝く敵だか道案内だか分からない神がたくさんいるだけである。これは5ちゃんねるの世界だ。

たとえば信州なぞにはその国の伝説や歴史なぞから当然大古墳がなければならぬと思われるところにそれがないということも、信州が負けて亡ぼされた人の国であり、今日伝わるものが少いということが、むしろその帝国が相手にとって大敵だったアカシになるのではないかと考える。
 その逆に、今日古墳群が数多く残っているところは勝った側の国であり、つまりは天皇家に関係のある国、天皇家に直接ではなくともその天皇家の功臣等に関係の深い国、そういうように見てとってよろしいのではなかろうか。


――坂口安吾「高千穂に冬雨ふれり≪宮崎県の巻≫」


安吾は心優しいので、信州に古墳があまりない理由を負けたからだと言っておる。確かに、木曽にも古墳はあまりないぞ。松本なんか、風景からいって、神が住むところだと思うのだが、北杜夫や大澤真幸や田中康夫の青春の地、高遠なんかも明らかな桃源郷であるのに、伊藤博博士の故郷とかにとどまっている。