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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

我をな視たまひそ

2020-08-05 22:53:56 | 文学


爾に伊邪那美命、答白したまはく、「悔しきかも、速く来まさずて。吾は黄泉戸喫為つ。然れども愛しき我がなせの命、入り来ませる事恐ければ、還りなむを、且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ」如此白して、其の殿の内に還り入りませる間、甚久しくて待ち難たまひき。


イザナミは死んでしまった。しかしこのあたりでは、死ぬことは身一つの顔のようなものであって、それが閉じてしまったからといって、植物が水を吸ってもう一回息を吹き返すように生がありうるように思われるのであった。イザナキは死んでしまった顔に語りかける、「まだ国は完成していない、もどっておくれ」と。死んでしまったものを同じように復活させることはできない。おもうんだが、ここでイザナミ相当の似た顔の妻がどこからかあてがわれる予定であったかもしれん……。それまであなたは王座でまっておれ、とイザナミは言っている。しかし、イザナキは柄谷行人の単独性の病に罹っておったので、妻は腐乱していても妻なのであった、このあと、彼はそれを見ることになる。

妻を単独性とみることの禁止が、国作りでは要請されたのであった。妻が死んだら、同じ顔をした者が代わりに本人となる。

最近の人間が宗教的安定を獲得出来なくなったのは、腐乱死体を見たことがないという事情もあるであろう。我々の変容を見たことがない我々は、此の世というものの同一性がいつも主観的に安定していると思い込んでいる。見てはならない、という命令が宗教のどこかに本質的なものとしてあるに違いない。しかしもともと見たことがないから、禁止を命じる存在が我々の身から自然に出てくるんだということを知らずに過ごしてしまう。

兵隊は鉄砲をとりあげると、あおむけに寝たまま額の真上の空にねらいをつけてズドンと射ち放した。
 すると弾丸は高く高くはるかなる天の深みへ消えて行った。
 兵隊はやはり寝たまま鉄砲をすてて、そして手近な花を摘んで胸に抱いた。それからさて兵隊はスヤスヤと眠った。
何分か経つと、果して兵隊のすぐれた射撃によって射ち上げられた弾丸は、少しの抛物線をも画く事なしに、天から落下して来て兵隊の額の真中をうち貫いた。それで花を抱いて眠っていた兵隊は死んでしまった。
 シャアロック・ホルムズが眼鏡をかけて兵隊の死因をしらべに来たのだが、この十九世紀の古風な探偵のもつ観察と推理とは、兵隊の心に宿っていたところの最も近代的なる一つの要素を検出し得べくもなかったので、探偵は頭をかいて当惑したと云う。


――渡辺温「兵隊の死」


もっとも、ホームズだって、兵隊が死んでいること自体はわかったのだ。イザナキはわからなかっただけである。