
其の足名椎・手名椎の神に告らししく、「汝等、八塩折りの酒を醸み、 亦、垣を作り廻らし、其の垣に八門を作り、 門毎に八さずきを結ひ、其のさずき毎に酒舩を置きて、 舩毎に其の八塩折りの酒を盛りて待て」とのらしき。 故、告りたまへる随に、かく設け備へて待つ時に、 其の八俣遠呂智、信に言の如来つ。 乃ち舩毎に己が頭を垂れ入れ其の酒を飲みき。 是に、飲み酔ひ留まり伏し寝ねき。 尒して、速須佐之男命其の御佩かせる十拳釼を抜き、 其の虵を切り散らししかば、肥河血に変りて流れき。
スサノオは天上界から追放された。で、出雲国にやってきた。で、ヤマタノオロチの生贄になってしまうといって泣く娘と老夫婦に出会う。この老人も一応オオヤマツミという神の子孫であって、まあそういうんだったら神である。スサノオはここで卑怯な手を使う。娘があまりにかわいいので、ついヤマタノオロチは俺に任せろ、そのかわりに娘を嫁にもらう(
――以上のような妄想を誘う程、ナンセンスな挿話であるが、蛇の神は四国なんかでも大いに尊敬されているのに、なぜここでは悪者なのであろう。洪水だから、とは言えるかも知れんが、どうも神が恐れ神でもあるというより、神すなわち我々の世界の要素が、なんの前触れもなく悪役になったりならなかったりする性格が存在していると、古事記などを読んでいると思わざるを得ない。編集の、すなわち権力の意地悪さと言ってしまえばそうなのであろうが、――それよりも、何が主体になって動きだし、文脈が更新されてしまうかその都度分からないにも関わらず、だからこそ安定もしている我々の世界が、もう世界観として確立していたかのように思われるのである。
僕は鼠になつて逃げるらあ。
ぢや、お父さんは猫になるから好い。
そうすりやこつちは熊になつちまふ。
熊になりや虎になつて追つかけるぞ。
何だ、虎なんぞ。ライオンになりや何でもないや。
ぢやお父さんは龍になつてライオンを食つてしまふ。
龍?(少し困つた顔をしてゐたが、突然)好いや、僕はスサノヲ尊になつて退治しちまふから。
――芥川龍之介「比呂志との対話」
芥川龍之介はこの先を書かない。そりゃ忖度と言えば忖度なのだが、芥川龍之介の世界は、たといスサノヲがだれかに退治されなくても、――この先がほっといてもあり得ることをなかなか認めないところがあるのではなかろうか。