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次に筑紫嶋を生みき。此の嶋も亦、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。
この身一つに面四つというのはさまざま議論があるのであろうが、面(顔)に名前がついているというは、まあ当然のようで、――確かに、いまでも我々は顔写真と名前をセットにしている。足首と名前をセットにしたりはしない。
身は神の生んだ器官であるが、そこから顔が分岐してあらわれる。ZOOMにあらわれる学生の顔みたいなものであろうか。ネットワークは器官である。我々の身体は顔に附属している尻尾みたいなものであろう。
この前、ネットで「仮面ライダーアマゾンズ」というのを見たけど、わたくしは生まれた頃やってた「仮面ライダーアマゾン」は独りボッチで、なんかしらんけど早々とアマゾンに帰ってしまったみたいな話だったようだが、今回見たのは、製薬会社がつくったアマゾン細胞かなんだかを人体に入れると、みんなアマゾンという人食い生物に変態してしまうのである。それがすでに話が始まる前に4000もいて、町で暮らしている。で、それらを狩る人達のドラマがこのシリーズであった。どこかからくる昭和の悪役たちに比べて、排除の問題を我々の心の問題に求めるのは確かに誠実さのようにみえるが、外国人がたしかひとりも出てこないそれはまさに「日本のお話」である。表面上はお子様向けではないつくりで、かなりグロテスクなシーンが連続するが、――そりゃ我々の内部は親子問題を含めてグロテスクに決まっており、問題は、「その殺人は殺人罪なので、これから裁判が始まります」という現実を無視しているということである。
で、――話はずれたが、このアマゾンズというのは、仮面の形がまず第一の識別記号とおもいきや、顔をまじまじと映されるのは、主役級のアマゾンズ三体ぐらいで、あとは怪物ズということでじっくりとは映されない。つまり彼らには顔がない。日本で言えば島ですらなく、最初に流された蛭である。もっとも、この主役級も、アマゾン細胞を器官とした三つの顔に過ぎないのだ。
まあ怪物に目方があってもなくっても、そんな事は構わないとして次に大怪物である我々人間の事を少し考えたい、人間が五官によっている間はまだ悪い怪物である、世人は科学に中毒してあまりに人間の五官を買い被り過ぎている。暗いところでは何も見えない、鼠や猫に劣る眼を持って実際正確に事物が見えようか、盗人の足痕を犬のように探れない鼻で実際香が嗅げようか、舌にしてもその例に洩ない、触感も至って不完全なもので、人間はこの五官では到底正確に事物を知ることが出来るものではないのである。ただ茲に不思議なのは心である、五官の力を借りないでこの心で事物を知る能力が人間に備っている。即ち種々ある手段によって三摩地の境涯に入れば自ら五官の力を借りずに事物を正しく知ることが出来る、古来聖人君子の説かれた教は皆この五官の迷を捨てよと云う事に他ならないのである。
――平井金三「大きな怪物」
古来、我々は人間だけでなく、島々までも、それ自体として捉えることはできなかった。かえって、五官を閉じることみたいな境地のなかに自分というモノをみいだすのである。そうでないとき我々の魂は、器官でもなく顔でもない位相を飛んでいる。