曇りがちであった十一月の天気も二三日前の雨と風とにすっかり定って、いよいよ「一年ノ好景君記取セヨ」と東坡の言ったような小春の好時節になったのである。今まで、どうかすると、一筋二筋と糸のように残って聞えた虫の音も全く絶えてしまった。耳にひびく物音は悉く昨日のものとは変って、今年の秋は名残りもなく過ぎ去ってしまったのだと思うと、寝苦しかった残暑の夜の夢も涼しい月の夜に眺めた景色も、何やら遠いむかしの事であったような気がして来る……年々見るところの景物に変りはない。年々変らない景物に対して、心に思うところの感懐もまた変りはないのである。花の散るが如く、葉の落るが如く、わたくしには親しかった彼の人々は一人一人相ついで逝ってしまった。わたくしもまた彼の人々と同じように、その後を追うべき時の既に甚しくおそくない事を知っている。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃いに行こう。落葉はわたくしの庭と同じように、かの人々の墓をも埋めつくしているのであろう
「濹東綺譚」の文章はすばらしいなあ。残念なのは、当記事の表題のような表記になってしまうことぐらいであろう。複雑怪奇な作であるから、これのほうが似合っている気がするのであるが。
進撃の巨人、アニメでも完結していたのか。長い間やってたから、ちょっと懐かしい感じがする作品になりましたね。懐かしい巨人になってからが勝負であろう。漱石の猫が言うように、死なないと太平は得られぬどころか、存在も許されないのが我々である。
漱石をよんでると書生・学生というものは、教員の寝床にバッタを入れたり、友人に思い人を譲ったり、猫を煮て食うなど獰悪な種族であるとおもわれるが、いまもそうである。弾圧あるのみ。
いまの学者の一部がロケットパンチもだせない正義の味方になっているのは、そこそこ正しいことを折り目正しく書くしかなくなっているからである。正しい書類ばかり書いている輩は、根本的に役人であり、体制を支えるだけである。書類とは体制そのものである。その書類に正義の脱植民地主義や女権運動のことを書き記しても、漱石が「私の個人主義」に書いているオイケンやベルグソンと同じだ。それどころか、平穏時に於ける道義上の個人主義に過ぎないのである。